なぜ首都を移転するのか インドネシアと5つの国の事情
インドネシアがこのほど、交通渋滞のひどいジャカルタからカリマンタン島東部へ首都を移す計画を明らかにした。ジョコ・ウィドド大統領は16日に議会で移転計画を打ち出しており、今後、動きが加速していく模様だ。
首都移転の理由はあちこちにある。ジャカルタは湿地に位置しており、毎年平均1〜15センチ沈んでいる。今では街の半分近くが海抜ゼロメートル地帯だ。
交通渋滞もひどい。2016年の調査によると、ジャカルタは世界で最も交通混雑の激しい都市だった。政府高官は車で移動の際、警察の誘導に頼らなければ会議に間に合わない。
ジャカルタの都市圏には3000万人が暮らしている。処理されている下水は全体の2〜4%に過ぎない。
一方、首都を移転させようと考えた国はインドネシアが初めてではない。いつくかの面白い事例を紹介する。
1. カザフスタンカザフスタンのナザルバイエフ大統領(当時)は1997年、首都をそれまでのアルマティから移転させた。
移転先はアルマティから1200キロほど北にあるアクモラという田舎町。ナザルバイエフ大統領が最初にしたのは、「白い墓」という意味を持つこの名前をアスタナに変更することだった。
その後、大統領は世界中から建築家を集め、自らの首都を一から作り上げた。
たとえば、イギリスの建築家ノーマン・フォスター氏が設計した世界一大きなテント「カーン・シャティリー」には、ショッピングモールや娯楽施設などが入っている。
木の上に卵を載せたような形のバイテレック・タワーには展望台があり、アスタナに新たにつくられる建築物を見渡すことができる。これには、ホワイトハウスに青いドームを取り付けたような大統領公邸も含まれる。その隣には、宇宙船が開かれつつあるような形の、青いセントラル・コンサートホールがある。こうした建築物はすべて、カザフスタンの力強い石油産業のたまものだ。カザフスタン経済は2018年、4.8%の成長を遂げている。
今年3月にナザルバイエフ大統領が辞任した際、カザフスタン議会は大統領への感謝を込め、アスタナをヌルスルタンへと改称した。なので現在、この世界でウランバートル(モンゴル)の次に寒い首都はヌルスルタン・シティーと呼ばれている。かつてソヴィエト連邦時代に強制収容所があった場所に近い都市としては、悪くない。
2. ミャンマーミャンマーの首都ネピドーはロンドンの4倍の広さがあるが、人口は非常に少ない。その歴史は2005年からと浅く、当時のミャンマー軍事政権によって選ばれた。ネピドーは「王座」という意味がある。ミャンマーが最大都市ヤンゴンからネピドーへ首都機能を移した理由については、多くが明らかにされていない。
ミャンマーの情報相はBBCの取材で、ネピドーはより戦略的な場所にあると説明したが、アナリストはこれに懐疑的だ。アナリストらは、ミャンマー軍が外国からの侵攻を恐れたか、国境近くの少数民族に対する支配を強めたかったからではないかとみている。中には、秘密主義の軍部高官が、占いに従って街や宮殿を移転させていた植民地時代以前の王たちの風習を、繰り返しているのではないかという意見もある。
ネピドーには計画都市の特徴が全てつまっている。議事堂から大統領公邸までの道路は20車線の広さがあるが、そこを走る車はごくわずかだ。並木通りにはきらびやかなショッピングモールや空室だらけの高級ホテルが立ち並んでいる。サファリパークも動物園もあり、スタジアムは少なくとも3つある。
また、ミャンマーの他の地域とは違い、24時間電気が通っている。
3. ボリヴィアボリヴィアにはスクレとラパス、2つの首都がある。スクレは1899年、ラパスとの短い内戦に負けるまではただ一つの首都だった。しかしこの内戦後、議会と行政機関はボリヴィア最大の都市でもあるラパスに移転した。スクレには司法機関が残っている。ボリヴィアの中央に位置するスクレは、1825年にボリヴィアという国が誕生した場所でもある。人口は25万人と、ラパスの170万人に比べるととても少ない。
議会では2007年、政府と議会をスクレに戻す提案が提出された。これは、ボリヴィア西部の貧しい地域を基盤とするエヴォ・モラレス大統領と、より栄えている東部を基盤とする野党勢力の地域的な競争によって生まれた案だった。しかしこの提案は、ラパス史上最大といわれる抗議デモを引き起こした。提案は却下され、ボリヴィアは現在も2つの首都を擁している。
4. ナイジェリア1991年まで、ナイジェリアの最大都市ラゴスはその首都でもあった。ナイジェリアが首都をアブジャに移転した理由は数多くあるが、第一には海岸から離れた内陸部だという点が挙げられる。
たとえば、ラゴスから北東部の街マイドゥグリへ行くには1600キロの道のりを2日かけて旅する必要がある。しかし、アブジャからであれば距離はぐっと短くなる。
また、ラゴスはサハラ以南アフリカで最も人口密度の高い都市であり、これも首都移転の理由となった。
アブジャは政治的にも民族的にも中立的な場所だ。ラゴスにはヨルバ人が多いが、ナイジェリアの南東部にはイボ人、北西部にはハウサ人が多い。これは非常に重要な要因だ。ナイジェリアでは1967〜1970年、イボ人が分離・独立を求めたビアフラ戦争が起きている。
アブジャはナイジェリア初の計画都市でもある。ラゴスの交通渋滞は苛烈を極めているが、アブジャでは初めから道路が広く設計された。大統領公邸や国会議事堂、最高裁判所のほか、国家や文化の中心機関がアブジャに集まっている。一方、多くの連邦機関が非公式にラゴスに居を構えている実態もある。
5. ポルトガルポルトガルの首都はかつて、13年間だけリオデジャネイロに置かれていたことがある。その理由は――ナポレオンだ。1807〜1814年の半島戦争(スペイン独立戦争)の間、ナポレオン率いるフランスは3回にわたってポルトガルに侵攻した。1807年12月の侵攻時、王家のブラガンサ家は当時ポルトガルの植民地だったブラジルへと逃げ、1808年3月にリオに到着した。19世紀のリオデジャネイロは発展著しい街だった。金があり、ダイヤモンドがあり、砂糖があった。また、人口の3分の1に当たる100万人の奴隷がいた。
ブラガンサ家のジョアン王子は、この地にポルトガル・ブラジルおよびアルガルヴェ連合王国を建国。これにより、ブラジルは単なる植民地からポルトガルと同等の地位へと昇格した。ブラジルではこの時、一部の自治が認められている。女王マリア1世の死後、ジョアン王子はジョアン6世としてこの連合王国を治めた。
ポルトガルの宮廷がリスボンに戻ったのは、13年後の1821年のことだった。
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