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三月三十日、天皇、皇后両陛下は都内に避難している福島県民らを親しくお見舞いされた。
両陛下は「お大事にね」「少し休めましたか?」などと、すべてのグループに声をかけられた。
避難民を見舞われた天皇陛下は、目線を落とされ、ひざまずきながら熱心に話を聞かれた。
「本当にご心配でしょう」
「ご家族は大丈夫ですか」
などと被災者を案じ、複数の避難所を転々とした話を聞くと、
「大変ですね」
と同情された。
福島県浪江町から避難してきた養護学校講師、浮渡健次さん(三十四)は「本当に心配してくださっている気持ちが伝わってきた」
と話した。(産経新聞記事)
都関係者らからの説明を省略し、予定時間を上回る約五十分を被災者のお見舞いに費やされた。 ところで両陛下は、被災地に直接入られて、被災者たちをお見舞いされたいとご希望されておられる。
阪神淡路大震災の時もまた新潟大地震の時も天皇、皇后両陛下は被災地を直接お見舞いされておられる。
国家の非常時において、我等日本国民と共に苦しみを分かち合い、心から我等国民の様子を憂慮されて来られたのは、日本肇国以来の歴代天皇であられた。
天皇は、我々国民の事を「大御宝」と呼ばれている。
これは、『日本書紀』に「民のかまど」の話に由来する。
第十六代仁徳天皇は、難波の高津宮から外を見ると、かまどを炊く煙が見えない事を心配され、
「民は食事を作ることもできないのか」
と嘆かれた。
これによって、仁徳天皇は三年間課役を免除すると共に、自らも贅沢を絶ち、宮殿は荒れるにまかせた。
その三年後、再び仁徳天皇は高殿に立たれた。
すると今度は、多くの民家から煙が見えた。「朕、すでに富めり」
仁徳天皇は満足された。
民が豊かになる事こそが、私が豊かになることなのだと仁徳天皇は思われ、次の御製を詠まれた。
「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」
これは、「高殿に登って国の様子を見わたすせば、民家からは煙が立ちの上っている。それは民の釜戸も豊かに栄えていることなのだ」という意味である。
この「民のかまど」の精神は歴代の天皇に脈々と受け継がれている。
昭和天皇は焦土と化して敗戦によって希望を失った日本国民に対して、昭和二十一年元旦に、『新日本建設に関する詔書』を賜れた。
昭和天皇は、冒頭に明治維新の時に、明治天皇が最初に仰せられた『五箇条のご誓文』を引用されて、日本人が明治維新の精神の原点に立ち返ることを示され、
「朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」
と仰せられ、天皇と日本国民との紐帯は、神話的な寓話ではなく、常にその紐帯によって、天皇は日本国民と共にあられ、その利害を同じくし、終始、天皇と日本国民とはその信頼と敬愛によって結ばれていると述べられている。
そして昭和天皇は、
「朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ勵マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」
と敗戦と焦土によって希望を失った日本国民を励まされた。
そして昭和天皇は、昭和二十一(一九四一)年二月から昭和二十九(一九五四)年八月に至るまで、総日数一六五日、四十六都道府県(アメリカ占領中のため沖縄県を除く)、全行程約三万三千キロを巡幸された。
昭和天皇の全国巡幸によって日本国民は励まされ、勇気付けられ、それによって日本は奇跡的な復興を遂げ、世界屈指の文化国家、経済国家となった。
巡幸の際、昭和天皇は、学校の板の間にゴザを敷き、黒いカーテンをかけお休みになったこともある。
ところで、天皇、皇后両陛下は、「第一グループ」の計画停電の時間に合わせ皇居・御所の電気を切っておられる。
実際に停電にならない日も、予定通り続けておられるそうである。
その間は暖房もお使いになられない。
明かりも蝋燭や懐中電灯をお使いになられながら、夕食をとられたこともあるという。
天皇陛下は、それほどまで国民のことを心配しておられる。
宮内庁の施設を被災者のために開放され、那須の御用邸では、被災者たちは、暖かい風呂に入る事もできた。
天皇陛下は、我等と共に在られる。そして天皇陛下は日本再建のために、皇祖皇宗の神々に深い祈りを捧げられておられる。
天皇陛下の御存在こそ、我等は不安から解放され、近い将来の復興が約束されていると信じることができるのである。
東京武道館を訪問し、被災者をお見舞いする天皇、皇后両陛下=30日午後、東京都足立区(代表撮影)
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