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前回旧丹波国から上杉氏や太田氏が関東に下向したと書いたが、
上杉氏や太田氏と言ってもちょっとピンと来ないかも知れないので
補足させて貰う。
上杉氏は藤原北家の流れを汲む公家の出と言われている。
領地である丹波国上杉庄にいつの頃からか下向して来た。
恐らく京では十分な生活が出来なくなって仕方なく来たのだろう。
都落ちは古今東西嫌なものである。
そんなことは平安時代頃より京で食べられなくなった皇族や公家、
貴族が関東などを始め全国に下向することは珍しいことではなかった。
その中から源氏や平氏が勃興して来ることになる。
藤原氏も沢山の門葉を地方に分散させている。
平将門追討で功をあげて一族を栄えさせた藤原秀郷や伊予国で京の
朝廷に背いて反乱を主導したと言われる藤原純友などが有名である。
平将門も京の朝廷に背いて反乱を起こし自ら新皇と名乗った為に
朝廷から討伐を受けて滅んだと教科書の歴史に書いてたたように
記憶していた。
これも全く勝者の歴史であり余りにも一方的なものと言える。
今から40数年前に海音寺潮五郎氏の武将列伝の中で平将門という
人物を初めて身近に感じることが出来た。
その後NHKの大河ドラマで平将門を主人公にした海音寺潮五郎氏
原作の風と雲と虹とが放送された。
平将門を俳優の加藤剛が演じていた。
将門の不遇さ、純粋な生真面目さや豪傑ぶりを颯爽と演じていた
のが印象的だった。
今までの大河ドラマで好きな順としては、まずは風と雲と虹と。
次が国取り物語。そして草燃えるとなっている。
この頃から平将門という人物に興味を持ったが余り参考になる資料
は少ない。
たまたま仕事で茨城県のつくば市に半年ほど滞在する機会があった。
ある日曜日に何を思ったのか平将門が居住していたと言われる豊田館
を見に行こうと思い立って岩井市(現在は坂東市)に行った。
岩井市内に入ってからお祭りをしているので何だろうと見ていると
何とそれは年に一度の将門まつりだという。
何という日に来たのだろうと思った。
後で調べると神田明神将門太鼓や神田ばやし等がが披露されるらしい。
一説によると神田明神の祭神は元々は平将門だったと言われている。
紆余曲折があったのだろう。その後、祭神が置き換わって平将門は
奥の方に押し込められてしまったという。
この平将門と関係が深い場所で神田明神と関わりがあるのを知って
納得である。
ちなみに平将門が坂東の地で新皇を名乗ったと言われる頃、それを
伝え聞いた朝廷は驚き怯えたことだろう。
当然何か対策を講じなければいけないとなり、その一つとして真言宗
である成田山新勝寺を建てたらしい。
当時は公然?として自分のライバルや恨みを持った相手に対して
呪詛・調伏を盛んに行った時代である。
京の朝廷も成田山新勝寺を坂東の最前線で呪詛・調伏を担わせること
になる。
勿論のこと京や奈良などの大きな寺院などでも盛んに行われことだ
ろう。
ただ、成田山新勝寺は平将門すなわち新皇に呪詛・調伏を以て打ち
勝つ寺ということで新勝寺と名付けたと本に書いてあったと記憶して
いる。
それが武将列伝だったかどうかは定かではない。
恐らく平将門が非業の死を遂げた時は呪詛・調伏のお陰と思った人
たちも多く居ただろうから各寺院には莫大な寄進がされたことだろう。
当時岩井市に行った時に地元の古い本屋に行くと北関東地域で平将門
を祀る神社を書いている本があった。
立派な本でそれには沢山の神社が書かれていた。
京の貴族に虐げられていた坂東の地で平将門という英雄が現れて坂東
の人たちは拍手大喝采をして後押しをしたのだろう。
ところがある時坂東の人たちは平将門を見捨ててしまったようだ。
その後、平将門が死に今度は将門の祟りに怯えることになったのだ
ろう。
申し訳なさと怖さで多くの神社や祠を作って祀ったと思われる。
神田明神も朝敵とも言われかねない平将門が祭神とは言えない時期が
長くあったのだろう。
その内、多くの神社でもあった祭神の置き換わりになってしまった
のだろう。
最近はどうだか知らないが、坂東すなわち関東の人たちの心の中には
長く英雄平将門は生きていた筈である。
歌舞伎界の宗家と言われる市川團十郎は代々成田山新勝寺を深く信仰
しているようである。
歌舞伎は本来一般庶民の娯楽であったと思うが体制側の一つの象徴で
あった成田山新勝寺と歌舞伎界の宗家が結び付くのか何となく違和感
を感じる。
一般庶民というより一般大衆の多くが元旦に成田山新勝寺に参拝して
いるのを見て大衆とはいかに気まぐれなものかということを実感させ
てくれる。
所詮、大衆とは気まぐれなものだろう。
最近でも小泉政権、民主党政権、安倍政権への変遷を見てもつくづく
そう思う。
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