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父良将と将門の豊田館での平穏な生活はそれほど長く続かなかったで
あろう。
父良将が急死するのである。
良将という人物は生没年さえよく分からない人だから死因も当然では
あるがよく分からないのだろう。
まだ自立出来ていなかった将門は小さな弟たちを抱え叔父たちを頼る
しかなかったのだろう。
父良将と他の兄弟、特に上の兄弟の折り合いは決して良いとは言えな
かったと想像する。
それがその後の同族間の血で血を洗う土地争いとなって行く。
父良将の領地の管理は叔父たちに任せて将門はそれなりの官位を貰う
ために京に登ることになる。
恐らくこれも将門を下総から遠ざけるのが目的だったのかもしれない。
将門が父の跡目を継ぐためにはそれなりの官位を貰い周囲を納得させ
ることが大事だろう。そうすれば父の領地も安心して返すことが出来る。
などと叔父たちは将門を焚きつけたのだろう。
それにより父の遺領が返ってくるのならと将門も納得して京へ向かっ
たことだろう。
京では父の代から親交があった藤原北家の藤原時平に出仕することに
なったらしい。
結局は10年以上仕えることになるが大した官位も貰えないまま帰郷
することになる。
実直な性格で要領の悪さもあっただろうが何よりも良い官位を貰えな
かった最大の理由は時平に対する貢物だろう。
その時の将門にはそれだけの財力はどう考えてもある筈がない。
ましてや叔父たちがそれを援助してくれるとはとても後の事象を見て
も考えづらい。
京都時代の将門の逸話を海音寺潮五郎氏の風と雲と虹とでは流石に
上手く創作していた。
将門という名前を聞くだけで加藤剛が演じた将門が頭に浮かんで来る。
貞盛の山口崇、国香の佐野浅夫、良兼の長門勇、純友の緒方拳らの顔
も頭に浮かんで来る。
中でも加藤剛の晴れやかな笑顔が頭に浮かぶと本当の将門も恐らく
こんな笑顔で多くの人を惹き付けたのだろうと想像する。
英雄とは多くの人を引き付ける魅力を持っているものである。
英傑西郷隆盛もそうである。
勝者の歴史によって反逆者にされてしまった平将門、明智光秀、
西郷隆盛など・・・。
他にも数え切れないくらいいるだろう。
海音寺潮五郎氏が本の中で書いていたと記憶している。
人倫に背いた人間は庶民の真の英雄にはなれないと。
確かに父親を追放し、長男を死に追いやった武田信玄、弟を殺した
織田信長、甥を後継としながら自分?の実子が生まれるとその座から
引きずり降ろし死に追いやった豊臣秀吉など。
これに女性が絡むともっと悲惨なものになる。
まず、武田信玄は謀略で滅ぼした諏訪氏の姫を自分の側室として生ま
れた勝頼を自分の後継としてしまった。
結果はその勝頼が武田家を滅亡に導くことになる。
豊臣秀吉も浅井氏滅亡の先鋒を勤めながら滅ぼした浅井長政の娘を
側室として秀吉の子供と言われる秀頼で豊臣氏は滅亡した。
武田氏と豊臣氏については下世話な言い方をすればダブルパンチで
ある。
故にその後の日本史上から武田と豊臣の名を聞くことはほとんどない。
織田氏だけは傍流として現在もその名を聞くことはある。
ただ、武田氏は一門と思われる土佐の板垣氏、岩崎氏や讃岐の平賀氏
や長州の山県氏などがその後輩出されていると思っている。
某大手機械メーカーとしておこう。
その企業のオーナー社長は武田一門の苗字で家紋を社章としている。
それらを見るだけで武田一門の流れを汲んでいることは想像出来る。
仕事柄三菱グループの中枢企業の下に位置することがあるらしい。
でも武田一門の流れを汲む企業の社長はうちの方が家格が上だと言っ
たとか言わなかったとかの話がある。
三菱グループの創業家である岩崎家は武田一門でもオーナー社長の家
と比べると明らかに家格は下になる。
余り具体的な話をすると差し障りがあるのでこれぐらいにさせてもら
う。
それぐらいの良い意味での気概は痛快でもある。
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ブログのアクセスを見るとやる気が出て来る。
懲りずに妄想?の歴史観にいよいよ突入する。
話がどんどん横道に逸れている。
平将門の父良将の話に戻そう。
将門の父良将が兄弟の中でも一番の力を持ったのは恐らく良将の父である
平高望の溺愛ではないだろうか。
良将と上の兄の国香、良兼と母を同じくしているという説がある。
もしそうだとすると良将の力量が抜きん出ていたとしても父親の後ろ盾は
必須だろう。
男三人兄弟で育った者から見れば親子にも相性があることは経験上よく分
かる。
得てして下の子が可愛い傾向も何となく理解できる。
良将は恐らく兄たちも羨む羽ぶりだったのだろう。
だいぶ前になるが神奈川県の平塚市に仕事の関係で数年間、週の半分くらい
行き来していたことがある。
その時に何かの情報であるが、平氏の一族が坂東に下向する途中の現在の
平塚で、その中に居た真砂子姫がこの地で亡くなって墓を建てて埋葬された
ので平氏の姫の墓(塚)で平塚の地名になったという説があるらしい。
この真砂子姫は平高望の妹で父は高望と同じ高見王と言われている。
高見王の子である高望王は臣籍に下って平高望と名乗り官位を貰って任地
である坂東に下向したらしい。
皇族の支流では食べるのも大変な状況だったのだろう。
藤原一族が幅を利かせ来ていたので京ではなく地方に行って貴種を売り物
にするしかないのだろう。
その時に自分の子供である国香、良兼、良将らと共に妹の真砂子姫も一緒
に連れて行ったということだろうか。
真砂子姫の年齢は分からないが坂東の豪族に下げ渡して力を得ようとした
ことも十分に考えられる。
恐らくその時代にしては結構な年齢だったような気がする。
小説的には既に嫁いでいた真砂子姫を無理矢理離縁させ坂東の地へ連れて
行く途中で病死してしまったとういうのは余りにも悲劇的な話になってしまう。
それほど当時の坂東では京の貴種の女性は垂涎の的であったと言えるだろ
う。
平高望の五男と言われる平良文から後に坂東八平氏に別れて行くのである。
長男の国香からは後の清盛一門、将門からは相馬氏などが出ている。
坂東八平氏、特に三浦氏の一端については是非語りたいと思っている。
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アクセスの数など気にせずに勝手な歴史観で話を進める。
丹波発祥の太田氏の話が飛んだまま平将門の方に行ってしまった。
脱線のついでに平将門が居住していたと言われる豊田館に行った
時の話をしよう。
豊田館の手前には一級河川ではあったが幅の狭い将門川が流れて
いたと記憶している。
近くには将門川の本流と思われる小貝川がある。
それらの地形を見ただけで過去には川の氾濫などもあり、幾度と
なくその流れも変えていただろうことは想像出来た。
豊田館は自然の要害に囲まれた堅固な城とも言われていたようだが
地形的には恐らくそうだったのだろう。
言い換えると豊田館の周辺は良田ではなかった筈である。
個人的にはこの豊田館の豊田に着目していた。
本当に豊田と言える良田だったのか、それとも・・・・・。
現地に行った結果は恐らく良田ではなく悪田であっただろうと想像
した。
湿地帯などの余り稲作に適さない土地を悪田(あくた)、芥(あくた)、
悪土(あくと)、明戸(あけと)、垰(あくつ)、阿久津(あくつ)、九州の
ある地方では牟田(むた)などと呼んでいたらしい。
ただ、これらの土地もいろんな改良をすることによって良田にも
なり得るのである。
それらの願いも込めて例えば、豊田、福田、肥田などに転化させる
場合がある。
平将門が父良将存命の頃にこの豊田館に住んでいたとすれば例え
豊田館周辺では余り米の収穫がなくても他に多くの領地を持って
いただろうから十分な生活が出来ていて尚且つ住居の豊田館は自然
の要害になっているので平穏な生活を将門は過ごしていただろう。
父は鎮守府将軍を朝廷から授かっている坂東の実力者である。
将門の父良将が平高望の三男とも四男とも言われているが何故長男
や次男などを差し置いてそれだけの力を持つことが出来たのだろうと
疑問を持った。
長男が家督を継ぐことが通例的になったと言われるのは徳川家康が
三代将軍家光を実質的に指名した影響が大きいと言われている。
それは江戸時代以降の話であって、それ以前はどうだったのだろう。
何となく長男が継ぐというのは恐らくあっただろう。
長男が兄弟の中でも一番優秀なら問題はないと思うが、これがそうで
なかった場合、長男が凡庸で下の弟で飛び抜けて優秀な人材がいた
場合などはお家騒動の原因にもなりかねないこともあるだろう。
兄弟での生存競争に勝ち抜いた場合などでは勝者の論理となってしま
うことも考えられる。
後で何とでも理由は付けられるのである。
源頼朝は源義朝の三男と言われているが、結果として源氏の嫡流と
なっている。これも勝者の論理である。
源義朝の正室は誰だか恐らく分からないのだろう。
源頼朝の母が正室としているものもあるが、確かに家格は高いかも
しれないが、もし悪源太義平がずっと存命なら頼朝が嫡流ということ
を果たして納得しただろうか?
大いに疑問に思える。
兄二人が死んでしまったので自動的に生き残った頼朝が押し出された
のだと個人的には推察する。
そして後付けで母の実家の家格が高いとか源氏累代の鎧である源太が
産衣を着て戦いに臨んだのは嫡子と認められていたからだとか言って
いるのであるが、当時の兄二人は到底源太が産衣を切れるような体格
ではなかったということである。
これもまた勝者の歴史か・・・・・?。
その後頼朝が坂東の武士の心を掴むのに腐心しているが、この時すで
に長男の義平は畏敬の念を持って悪源太と認められていたのである。
義朝は坂東の地と京を往復している途中の地に女性が居て子供を生ま
せているのだから、ある意味で羨ましい御身分である。
私見を言わせて貰えば、源義朝の本拠地に居る女性が本妻と言えるの
ではないだろうか。
とすれば長男源義平、通称悪源太義平の母である三浦義明の娘という
ことになる。
歴史にもしは言っても仕方ないことではあるが悪源太義平が家督を継
いでいれば悲劇の一族と言われる三浦一族ももっと違う歴史を歩んで
いたのかもしれない。
この三浦一族の数奇な歴史のほんの一端を私自身が垣間見ることになる
のはまた別の機会にでも。
歴史とは必然と偶然が織り成す人間模様だと痛感させられることがある。
家運を賭けた悪源太義平がああいう死に方をしてしまったので頼朝が
旗揚げをした時に三浦義明も自分の家を守る為に命を差し出す選択をし
たように思える。
それらもあって頼朝は内心では三浦一族を重荷に感じていたのかもしれ
ない。
長男の外戚であり、まして命まで差し出されたらその一族は軽く扱えない。
頼朝にとってはそれが重荷になって行き、頼朝の外戚になった北条氏に
とっては疎ましくなって来るのは必然である。
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たまたま縁があって新しい車を購入したので念願のルーフキャリアを
付けた。
あとはどんなサイクルキャリアを付けるかだけである。
初めてサイクルキャリアを付けるのでいろいろと迷っている。
インターネットで調べても上手く現在のルーフキャリアにマッチするか
不安も大きい。
早くサイクルキャリアを決めてルーフキャリアに取り付けて念願の兵庫
県佐用町の平福や同じく丹波地方にサイクリング行きたい。
先日、仕事で淡路島に行った時に南あわじ市で自転車で来た人の為の
宿泊施設もあることを知った。
ここも一度行ってみたいものだ。
数年前にしまなみ街道のサイクリングが結構話題になり出した頃にどんな
ものなのか見に行ったことがある。
尾道港の近くにジャイアントの自転車専門レンタサイクルの店があるので
借りたらいくらぐらいになるか確認したら2、3回も借りればちょっと
した安いクロスバイクが買えるくらいの金額になる。
それより問題なのがこのレンタサイクルの店からしまなみ街道に乗るまで
の道が恐くてとても自転車では行けないと思って諦めたことである。
自動車で自転車を積むことが出来ればしまなみ街道の途中で島に下りて、
そこを自転車で散策することも出来る。
ぐっと行動範囲も広くなるだろう。
何れにしても先ずは兵庫県内からである。
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昨日はブログのアクセス数がいつもに比べて6倍くらいあった。
何が引っ掛ったのかよく分からないが驚きである。
いつもはコンスタントに100前後ぐらいである。
1年以上更新していなかったが、少し前から何を思ったか出来るだけ更新
するようにしている。
毎日更新する場合と2、3日空けて更新する場合があるが昨日は2、3日
空けた日だったので余計に驚きである。
まあ、余りそんなことは気にせずに相変わらず自分勝手な歴史観を中心に
書いて行こうと思っている。
現在はまだ半分は現役なので仕事の具体的なことは当然ではあるが書けな
い。
これも10 年以上前からコンプライアンス教育で禁止しているところも
あれば、最近でもコンプライアンス教育では触れていないところもある
ようだ。
個人のブログはそれなりのアクセスがあるが、もう一つの旅行会社の交流
サイトはアクセス数は段違いで日によってはアクセス数が0というのも珍し
くない。
そいう意味でどちらも結果が見えるので当然ではあるがモチベーションの
差はある。
見てもらうために書いているのではなく、書いたことが結果として見て
もらっていると考えるのが良いのだろう。
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