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武蔵(3)では播州人の気質などに大きな影響を与えている気候風土について述べたが、
播州人気質の一端として司馬遼太郎氏が「播磨灘物語」の中で、先に紹介した「石の宝殿」の
ことと関連して、何か目的を持って石造物を作ろうとしたが、完成しないまま途中でやり
っぱなしの状態である。
完成すればその石造物が何かは明白だが、如何せん未完成の状態で何を作ろうとしたのか
正確に分からない。
推測の域をでないで命名したのが「石の宝殿」であるようだ。
そもそも、この地域では古墳時代頃に石工集団の活動はピークを迎えていたようで近畿の
古墳にある石棺の大半は、この「石の宝殿」のある通称竜山と言われる岩山で採取された石
を使って作られたものらしい。
この岩山は現在も石材を産出しており、足掛け千五百年以上も形は変わっているが、延々
と続けられていることになる。
播州、特に加古川流域にはその石棺を納めている古墳が非常に多い。
加古川市がまとめた資料には市内だけで大小500ぐらいあったと思う。
この地域では、それにまつわる石棺仏と言うのがある。これは人間の心理の面白い(?)
一面を表していると思い、興味深く思っている。これも機会があれば。(写真は石棺仏)
この石工集団のルーツは、大分県の国東半島の石仏、朝鮮半島にある石仏、中国にある石仏、
遠くアフガニスタンの石仏に連なると聞いたことがある。
朝鮮半島から九州北部に渡来し、国東半島に東下してから東進して瀬戸内海を縦断の後に
現高砂の竜山に辿りつたようだ。
この地で石造物の生産を活発に行ったあとに、何時の頃か忽然と姿を消してしまったようで
ある。
その忘れ物が「石の宝殿」と言えるかもしれない。
姿を消した石工集団は、滋賀(近江)の穴太衆とも関係があると聞いた記憶がある。
神戸から加古川に引っ越して来てから何となく気になっていたのが、これだけ文化遺産が
豊富なのに住んでいる人達はそれほど関心がないことだった。
人間は恵まれ過ぎるとそれが普通になって、それの大切さが実感し辛くなってしまうのだ
ろう。
(話は飛躍するがメーテルリンクの「青い鳥」の中で「幸せ」を探して旅に出るが、結局「幸せ」
は行く先々には無く、自分の生活している周り(近く)にあると言うこととちょっと似た所
があるように幸せ(豊かとはちょっと違うが)であることに慣れてしまう(麻痺する?)と
感じるがどうだろうか?)
武蔵も小さい時に米田を離れているので、地元の人達にはほとんど記憶に残っていなかった
のだろう。
近年専門家の中で武蔵播州高砂生誕説を唱える人達が出て来たので、おっとり刀で武蔵・伊
織祭りなどを開催するようになったが、もう一つ地元の盛り上がりに欠けるように感じる。
地元に武蔵の名残のものや、語り継がれていることがほとんどないのではないかと思う。
却って心無い便乗商法や武蔵軽視とも取れる行動をする人達が居たことで興醒めてしまった
観光客や地元の人が居たのも事実である。
このことは別の機会に告発(?)したいと思っている。(写真の寺はその一部)
宮本武蔵に係わる話より、生誕の地元の話が主流になって申し訳ないが、現実に地元に伝わ
る武蔵の言い伝えがほとんどないのだから、少しでも関連する話を持ってくるしかない。
お許し願いたい。
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