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アクセスの数など気にせずに勝手な歴史観で話を進める。
丹波発祥の太田氏の話が飛んだまま平将門の方に行ってしまった。
脱線のついでに平将門が居住していたと言われる豊田館に行った
時の話をしよう。
豊田館の手前には一級河川ではあったが幅の狭い将門川が流れて
いたと記憶している。
近くには将門川の本流と思われる小貝川がある。
それらの地形を見ただけで過去には川の氾濫などもあり、幾度と
なくその流れも変えていただろうことは想像出来た。
豊田館は自然の要害に囲まれた堅固な城とも言われていたようだが
地形的には恐らくそうだったのだろう。
言い換えると豊田館の周辺は良田ではなかった筈である。
個人的にはこの豊田館の豊田に着目していた。
本当に豊田と言える良田だったのか、それとも・・・・・。
現地に行った結果は恐らく良田ではなく悪田であっただろうと想像
した。
湿地帯などの余り稲作に適さない土地を悪田(あくた)、芥(あくた)、
悪土(あくと)、明戸(あけと)、垰(あくつ)、阿久津(あくつ)、九州の
ある地方では牟田(むた)などと呼んでいたらしい。
ただ、これらの土地もいろんな改良をすることによって良田にも
なり得るのである。
それらの願いも込めて例えば、豊田、福田、肥田などに転化させる
場合がある。
平将門が父良将存命の頃にこの豊田館に住んでいたとすれば例え
豊田館周辺では余り米の収穫がなくても他に多くの領地を持って
いただろうから十分な生活が出来ていて尚且つ住居の豊田館は自然
の要害になっているので平穏な生活を将門は過ごしていただろう。
父は鎮守府将軍を朝廷から授かっている坂東の実力者である。
将門の父良将が平高望の三男とも四男とも言われているが何故長男
や次男などを差し置いてそれだけの力を持つことが出来たのだろうと
疑問を持った。
長男が家督を継ぐことが通例的になったと言われるのは徳川家康が
三代将軍家光を実質的に指名した影響が大きいと言われている。
それは江戸時代以降の話であって、それ以前はどうだったのだろう。
何となく長男が継ぐというのは恐らくあっただろう。
長男が兄弟の中でも一番優秀なら問題はないと思うが、これがそうで
なかった場合、長男が凡庸で下の弟で飛び抜けて優秀な人材がいた
場合などはお家騒動の原因にもなりかねないこともあるだろう。
兄弟での生存競争に勝ち抜いた場合などでは勝者の論理となってしま
うことも考えられる。
後で何とでも理由は付けられるのである。
源頼朝は源義朝の三男と言われているが、結果として源氏の嫡流と
なっている。これも勝者の論理である。
源義朝の正室は誰だか恐らく分からないのだろう。
源頼朝の母が正室としているものもあるが、確かに家格は高いかも
しれないが、もし悪源太義平がずっと存命なら頼朝が嫡流ということ
を果たして納得しただろうか?
大いに疑問に思える。
兄二人が死んでしまったので自動的に生き残った頼朝が押し出された
のだと個人的には推察する。
そして後付けで母の実家の家格が高いとか源氏累代の鎧である源太が
産衣を着て戦いに臨んだのは嫡子と認められていたからだとか言って
いるのであるが、当時の兄二人は到底源太が産衣を切れるような体格
ではなかったということである。
これもまた勝者の歴史か・・・・・?。
その後頼朝が坂東の武士の心を掴むのに腐心しているが、この時すで
に長男の義平は畏敬の念を持って悪源太と認められていたのである。
義朝は坂東の地と京を往復している途中の地に女性が居て子供を生ま
せているのだから、ある意味で羨ましい御身分である。
私見を言わせて貰えば、源義朝の本拠地に居る女性が本妻と言えるの
ではないだろうか。
とすれば長男源義平、通称悪源太義平の母である三浦義明の娘という
ことになる。
歴史にもしは言っても仕方ないことではあるが悪源太義平が家督を継
いでいれば悲劇の一族と言われる三浦一族ももっと違う歴史を歩んで
いたのかもしれない。
この三浦一族の数奇な歴史のほんの一端を私自身が垣間見ることになる
のはまた別の機会にでも。
歴史とは必然と偶然が織り成す人間模様だと痛感させられることがある。
家運を賭けた悪源太義平がああいう死に方をしてしまったので頼朝が
旗揚げをした時に三浦義明も自分の家を守る為に命を差し出す選択をし
たように思える。
それらもあって頼朝は内心では三浦一族を重荷に感じていたのかもしれ
ない。
長男の外戚であり、まして命まで差し出されたらその一族は軽く扱えない。
頼朝にとってはそれが重荷になって行き、頼朝の外戚になった北条氏に
とっては疎ましくなって来るのは必然である。
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2016年07月01日
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