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すべての人が幸せになりますように

桂小五郎



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桂小五郎
この人は実に面白い  千変万化  逃げ回るのが得意
名前も沢山  結局  木戸孝允として  明治政府の中枢となりますね
生まれは今の山口県萩市、お医者さんの家でした。
待望の長男ではありましたが、体が弱く「この子は無事大人になれないんじゃないだろうか」と思われていたので、幼い時期に武士の養子に入っています。
が、体の弱さとは裏腹に度胸は据わっていたらしく、”川を行き来する船をひっくり返しては大爆笑する”という今だったら間違いなく生活指導ものの悪戯が大好きだったとか。よく人を殺さなかったものです。
一方そんな悪戯好きの子供によくあること?で、彼は頭の回転も素早い人でした。
地元の殿様・毛利敬親は身分を問わず広く人材を募っており、孝允にも試問したことがあるのですが、彼は二回合格しているのです。
内容は即興で漢詩を作ること、そして儒教の本「孟子」の解説だったそうですから、カンニングや暗記だけではこなせません。素で頭がいい人って何でもできちゃいますもんねうまやらしい。
 
俺はもう出家する!
「コイツ見所あるぞ」ということで藩主のお眼鏡に適った孝允ですが、そう簡単に出世はできませんでした。
というのも、その後相次いで肉親を亡くし、すっかり気落ちしてしまったからです。
一時は「俺はもう出家する」とまで言っていたそうですので、心の底から落ち込んでいたのでしょうね。
しかし一年ほど経って吉田松陰に弟子入りしてからは、学問が慰めになったのか再び頭脳明晰さを取り戻していきます。
ペリーが二回目の来航をしたときには「黒船見たいです!!!」とゴリ押しして見学しに行っているくらいですから、この頃までには立ち直っていたようです。ちなみに当時、藩のお役目など正当な理由がない限り、勝手によその藩へ行ったりすることはできませんでした。
 
 
一時は長州藩を見限るが 高杉晋作の台頭で・・・ 
そして実際に黒船を見た孝允は「これからは海外で学ばないとダメじゃね?」と感じ、早速「留学したいんですけど」と申し出ます。
ですが、開国するか否かその他もろもろでバタバタしていた幕閣以下はそれどころではありません。そう簡単に許可が下りるはずもなく、仕方がないので孝允は西洋の学問に通じている人物を探し出し、造船術や西洋の兵法、英語など多方面の勉強を始めました。よくそう何人も先生が見つかったものです。
 
こうしたアグレッシブな姿勢はやがて藩にも認められ、30歳ごろには藩の中枢で意見を言える立場になっていました。
長州というと「外国ブッコロ!」なイメージが強いですが、西洋の知識を持っていた孝允や高杉晋作は「いやいや今の俺らじゃ無理でしょ。皆落ち着きなさいよ」と言っています。が、前者の声がデカかったので結局攘夷運動という名の因縁付けが行われた結果、見事返り討ちにあうという誰も得しない状況に陥りました。あーあ。
しかも、長州藩は朝廷とも幕府とも仲違いして征伐軍を向けられるという憂き目を見ます。第一次長州征伐の頃ですね。
孝允はその頃、「もうダメだこいつら」と諦めモードに入っていたようで、藩を離れて潜伏生活をしていました。
が、高杉晋作が「だから攘夷なんぞやるだけムダって言っただろうがこのアホ共!」ということで藩の中枢をひっくり返すと、返り咲いて薩長同盟を結んだり、第二次長州征伐では藩の去就を預かる一角として活躍します。
 
若い後輩たちを訪ねて歩く
……とまあ、こんな感じでバタバタしながら明治政府へも入っていくのですが、バリバリ働いてた割に「身分の低い後輩の家にもいきなりお宅訪問していた」なんてエピソードも残っているのが面白いところです。
しかも仲が良かった人数名というのではなく、本当にどんな相手でも尋ねていくので、あらゆる意味で相手が困惑していたとか。
中には「うちは滅茶苦茶狭くて客間もないのに、いきなり木戸さんが来たので布団を庭に放り出してから上がってもらった」なんて人もいるほどです。
また、あるときは訪ねた先の家人が病気だと知るとすぐさま医者を紹介したりして、世話焼きな一面もありました。
何を考えていたのかよくわかりませんが、おそらくは人材探しと若者の実情把握の二つを兼ねていたのでしょうね。自分ももともと身分が低く、藩主に見出してもらっただけに「どこにどんなヤツがいるかわからんし、若いのに会っておいて損はない」と考えていたのかもしれません。
でも、この人岩倉使節団の一員でヨーロッパに出かけた時期もあったのに、どうやってそんな時間を作ってたんでしょうねえ。
デキる人は時間の使い方からして違うということでしょうか。うっ耳が痛い。
 

桂小五郎は、蛤御門の変の後、半年あまりの間、逃亡生活を送っていました。

幕府からは、朝敵となった長州藩の中心人物として行方を探索され、
長州にも、親幕府政権が成立したために帰ることが出来ず、
身を寄せる場所がなかったのです。

小五郎は、その間、芸妓の幾松や町人の甚助などに支えられ、
京都〜但馬出石〜城崎と場所を移りながら、世を忍び、潜伏を続けました。

今回は、そうした波乱に満ちた、桂小五郎の潜伏生活の様子をたどります。


元治元年(1864年)6月。
蛤御門の変で、長州の軍が潰滅し、京の町が戦火につつまれる中を、
桂小五郎は、一人、京を脱出しました。

その後、数日して、再び京に潜入。
小五郎は、鴨川の橋の近くで、乞食のような身なりをして隠れ住みます。

しかし、小五郎は、今でいえば指名手配の要注意人物。
新撰組などから、執拗な探索を受け続けました。
そんな中で、小五郎を支えたのが、
京・三本木遊郭の芸妓、幾松でした。

幾松は、命を狙われていた桂小五郎を庇護し、
新選組に追われる小五郎を、機転を働かせて、度々かくまったといいます。
小五郎の食事についても、商家の女になりすました幾松が、
橋の上から握り飯の入った包みを、そっと投げ落として渡していました。

しかし、小五郎も、いつまでも、京に留まっていることは危険であると感じていて、
何とか、関所を超え、京から抜け出すことを考えていました。
そこで、小五郎は、懇意にしていた対馬藩士に相談し、
その下僕をしていた広江甚助という町人に、協力を依頼します。

甚助は、小五郎が自分の援助を必要としている事を聞き、
小五郎を、京から脱出させて、かくまうことを決意しました。

甚助は、小五郎を、甚助の郷里出石に逃れさせる段取りを進めていきます。
小五郎を船頭に化けさせて、京を脱出、関所もうまく通り抜けて、
小五郎を、無事、出石に連れて行く事に成功しました。

この後も、甚助は献身的に小五郎をかくまい続けます。

出石では、最初、知人の家に小五郎を住まわせ、
次いで、会津、桑名の藩士が小五郎の探索にきたという噂を聞くと、
出石から城崎の湯治宿に小五郎を移動させました。

時には、広江家ゆかりの寺に預けたり、
又、ある時は、「広江屋」という荒物屋を小五郎に開かせたりしました。
小五郎も、この時期には、甚助の妹の婿と称し、広江屋孝助と名乗っていたといいます。

そうした、ある日。
小五郎は、高杉晋作が藩内でクーデターを起し、俗論党政府を打倒したとの噂を聞きつけます。
小五郎は、長州の状況を確認したいと考え、甚助に下関に行くよう頼みました。
さらに、この時、自分の居場所を、村田蔵六にだけ伝えるよう指示しました。
蔵六は、下級藩士ではありましたが、小五郎は彼に全幅の信頼を置いていたのです。

甚助は、下関へと向かい、京から逃れてきていた幾松と面会。
又、村田蔵六に会って、小五郎が但馬に潜んでいることを伝えました。

やがて、小五郎が無事でいることを知った長州藩は、
一日も早く、小五郎を藩に呼び戻そうとしました。
成立ほどない長州新政権は、
藩を背負って立てる、首相のような役割が果たせる政治家を切望していたのです。
結局、甚助と幾松の2人が、出石まで小五郎を迎えに行くことになりました。

慶応元年(1865年)2月。
桂小五郎が、長州に戻ってきます。

帰国後の小五郎は、事実上藩政府の頂点に立ちました。
それとともに、それまで無名であった村田蔵六(のち大村益次郎)を、
いきなり、軍務大臣に相当する軍政の責任者に抜擢。
彼は、この蔵六をして、藩軍の整備にあたらせ、
来たる対幕戦の総司令官にしようと考えていました。
ここから、長州の倒幕に向けての軍制改革が、本格的に進められることとなっていきます。

ところで、小五郎の逃亡を必死に助けた甚助。
人から頼まれたというだけで、何の義理もなかったはずの小五郎に対し、
驚くほど親身になって、彼をかくまい、生活の面倒を見続けました。
多くの危険はあっても、利益を受けることのない、まさに、無償の善意でありました。
小五郎は、甚助の人情により、この苦境から救われたということができるでしょう。

小五郎も甚助の恩を終生忘れることがなく、
明治になってから、甚助が大阪で商売を始めたときには資金を提供し、
「広江屋」の商号と孝助の名も与えたといいます。

そして、もう一人、芸妓の幾松。
こちらは、その後、桂小五郎と結婚。
後の木戸孝允夫人・松子となります。

以上 ウィキペディアから 引用編集です
 

岩倉具視 その2

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なぜここまで外国との通商を嫌がったのか?
文久三年(1863年)に家茂が上洛してきたときには、念押しに攘夷を命じました。また、自身でも賀茂神社や石清水八幡宮で攘夷を祈願しています。
もっとも、以前から公家の一部に無理やり孝明天皇を行幸させる者がいたため、これも孝明天皇の本意かどうかはわかりませんが……。
煮え切らない態度に業を煮やした諸外国は、慶応元年(1865年)、大坂湾へ船を乗り付け、条約の勅許を求めるようになります。
孝明天皇も情勢を悟って勅許を出すことにしましたが、宮中での西洋医学禁止を命じてもいました。
少し話が前後しますが、孝明天皇の遺品に西洋式の時計があります。つまり、西洋の文物全てが嫌だったわけではないのでしょう。
では、なぜここまで外国との通商を嫌がるのか?
おそらくそれは、皇室特有の価値観によるものだと思われます。
もともと皇室というのは「浄」「不浄」についてとても敏感な社会です。たぶん孝明天皇も「西洋医学では患者の体を切ったり縫ったりすることがあるし、ときには腹を切り開くこともある」ということは聞いていたのでしょう。
となると、「天皇の体に一般人=不浄の可能性が高い者が触れるおそれがある」ということで、嫌ったのではないでしょうか。
外国人が入ってくることを嫌ったのも、国そのものを象徴する立場である孝明天皇からすれば、自らの身体を蹂躙されるように感じたのかもしれません。
薩摩藩あたりがこの辺に気付いて、もうちょっと柔軟に対応すべきだったでしょうね。孝明天皇の先生である了三は薩摩藩にもツテがありましたし。
あるいは出島のように、「外国人の居留・通商は離島に限る」方針だったらもう少し態度を軟化させたかもしれません。薪水給与令(外国船に薪と食料・水は供給するが、それ以外のお付き合いはお断り)と通商条約の間にもうワンクッション置いて、孝明天皇や朝廷を粘り強く説得するとか。
それはそれで西洋諸国との折衝に骨が折れそうですが、本来幕府はそこに力を注ぐべきだったでしょうね。そうしたら、幕府自身の延命にも繋がったかもしれませんし。
 
大久保や岩倉は孝明天皇と意見を異にし……
孝明天皇は、松平容保への信任が厚かったことからして、武家に対しても全てが嫌いというわけではなかったと思われます。
本当に朝廷や天皇への忠誠心が感じられる人物が折衝役になっていれば、ソフトランディングは充分可能だったでしょう。
しかし、この頃になると孝明天皇の攘夷や公武合体を望む方針に反対する人々が現れ始めました。
大久保利通岩倉具視は「お上が国内の争いの元である」「天下に対して孝明天皇が謝罪し、信頼を取り戻すべき」とまで主張していた模様。
これこそあべこべというか、天を天とも思わない所業というか……土下座至上主義者っていつの時代にもいるんですね。
さらに慶応二年(1866年)には、追放されていた尊王攘夷派の公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生します。
これも孝明天皇は退けましたが、その年の年末12月25日に35歳という若さで崩御してしまいました。
死因は天然痘ということになっておりますが、あまりにもタイミングがアレなので、暗殺説がいくつか出ています。
病気の進行状況としては、亡くなる2周間ほど前から風邪をひいていて、治りきらないままのまま神事を行って発熱したのがきっかけで発病したといわれています。
宮中の医師が診察や投薬を行っても回復に向かわず、天然痘の疑いが持たれ、改めて天然痘の診察経験がある医師が呼ばれました。それから医師15人による24時間体制で診察が続いたのですが、12月25日に痰がひどくなり、その日の午後11時頃亡くなったということになっています。
この間、公的な記録では一時回復の兆しがあったように書かれていることから、毒殺説がささやかれはじめました。
孝明天皇は基本的に身体頑健で、風邪もほとんどひかなかったといいます。そのため公家の中には「風邪の心配もないほど健康でいらしたのに、痘瘡と聞いて驚いた」と日記に書いている人もいて、当時から不審に思われていたのです。
 
 

岩倉具視 1


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岩倉具視

明治の元勲ですが この人は最大の策略をもって 徳川を倒し明治国家を作り上げた人物ですね

岩倉具視の策略
岩倉具視は 公家と言っても 下級の公家です。
その岩倉が政治デビューしたのが
廷臣八十八卿列参事件 (ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)です。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。
日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内することとなった。しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。
その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。
勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる。
江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家や武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。
条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。
八十八卿という表現
『卿』は三位以上の上級貴族のみを指す言葉の上、当時の公家137家(※基本、従五位下が最低位階<蔵人のような六位でも正式な公家だった例外もあり>、維新後ほぼ例外なく子爵以上に叙された)の1つの家から複数の参加者出した家もあり、適当でないという意見もある。当時、三位以上の上級貴族は『卿』で、四位〜五位の下級公家は『朝臣』の名称の目為、作家の井沢元彦などは実態にあっていないとして『公家八十八人列参事件』の名称をを使っている。
なお、江戸初期は朝廷の零落のため、137家でも多すぎて無益の江戸御家人のような、副業でやっと食いつないでいた公家も多かったが、光格天皇の皇威復興運動と尊王攘夷運動の高まりにより、正六位以下が極官で正式には公家とはいえない『地下家』も増員されることにより、江戸初期には事実上、町人以下の待遇だった『地下家』からも、華族制度の制定により『男爵』号を受爵した家がかなり出るに至っている。
1.孝明天皇を暗殺した。(1866)
幕府は勅許を得られないまま6月に日米修好通商条約へ調印してしまいます。
これには当然、孝明天皇も朝廷も大激怒。譲位まで考えてたといい、公家たちは「御三家と大老(井伊直弼)を呼んで説明させますので、それまでお待ち下さい」(意訳)と引き止めました。譲位してどうするつもりだったのか。その辺は不明ですが……このとき明治天皇はまだ6歳ですし、後水尾天皇が紫衣事件などに不満を抱いて譲位した故事にならおうとしたのでしょうか。
これに対し幕府は「大老は忙しいし、御三家は処罰中なんで代わりに老中首座と所司代に行かせます」(意訳)と返事。その返事が京に届くまでの間に、幕府はロシアやイギリスとも通商条約を結んでしまいました。これじゃ孝明天皇や朝廷がさらに怒るのも無理はないですよね。
孝明天皇は譲位を再び考えるようになり、いわゆる「戊午の密勅」を発しています。
「開国そのものが国の恥であり、認められない」
入れ替わりに老中首座・間部詮勝(まなべ あきかつ)が上京して釈明をします。孝明天皇は会いませんでしたが、詮勝は「勅許なしに調印したのは幕府としても本意ではなく、海防準備が整うまでの時間稼ぎである」「準備ができたら、改めて和戦のどちらにするかを決める」と言いました。どちらかというと、これ自体が朝廷への時間稼ぎですけども。
これを伝え聞いた孝明天皇は「開国そのものが国の恥であり、認められない」と書面で伝えます。このため詮勝は「鎖国に戻す」と口約束をせざるを得ませんでした。孝明天皇はそれで安心したようですが、既にそれができないことはほとんどの人がわかっていたでしょうね。
幕府もそのつもりはなく、開国反対派の公卿を辞めさせたり、出家させたりしています。孝明天皇はこれにも異を唱えようとしたが、逆らいきれませんでした。
幕府から和宮降嫁が奏請されたのは、この後のことです。そりゃこんだけナメた言動された上、「おたくの妹さんください^^」とか言われれば誰だって大反対しますよね。しかも本人が乗り気でなかったわけですし。最終的には和宮の母の実家である橋本家にまで根回しされ、孝明天皇も鎖国再開と譲位実行という条件付きで同意します。

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