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まゆみちゃんは、カブトムシの一件以来、あまり笑わなくなった。テレビを見ていても、ゲームをしていても、その瞳には空ろな光しか感じられない。ご飯を食べても「おいしい」とは言わず、食べる量さえも減ってきてしまった。 「このままでは病気になってしまうわ・・・」 そう考えたママは、児童カウンセリングセンターにまゆみちゃんを連れて行った。別室でまゆみちゃんを待たせて、ママはカウンセラーの先生に一連の出来事を話した。 「先生・・まゆみは治るでしょうか・・?」 先生はその言葉に、首を小さく横に振る。 「まゆみちゃんは治りませんよ。」 「え・・・・!!」 「まゆみちゃんは、どこも悪くない。だから治る必要はありませんという意味です。」 「で、でも・・まゆみは・・・。」 そう言いかけたママに向かって先生は言う。 「治る必要があるのはあなたですよ。お母さん。」 「わ・・私・・ですか・・・?」 「まゆみちゃんはシチューが好きなんですよね?」 「はい・・。」 「まゆみちゃんが、シチューを好きだということをあなたはどうして知っているのですか?」 「そ・・それは、シチューがおいしい食べ物だから当たり前ではないですか?」 「シチューはおいしい食べ物ではありませんよ。お母さん。ただの食べ物です。」 「はあ・・・??」 「ただの食べ物なんですよ。味なんてないんです。」 「あ・・ありますよ!味があるからおいしいか不味いかわかるんじゃないですか!」 ママには先生の話がまったくわからなかった。 「では、お母さん。アフリカのある部族では昆虫の幼虫を食べています。みんなそれをおいしい と言って食べます。あなたはそれを、今ここでおいしいと思えますか?」 「それは・・それは無理だと思います。食べることも出来ません。」 「ならば、そのアフリカの人たちも、シチューなんておいしいとは感じないでしょう?」 「いいですか。お母さん。まゆみちゃんはあなたがいるから、あなたに育てられたからこそ、 シチューをおいしい食べ物だと決定しているんですよ。」 「・・・・。」 「あなたはまゆみちゃんに始めてシチューを食べさせた時、何か語りかけたはずです。言葉を使って まゆみちゃんに何か言いませんでしたか?」 (ほら、まゆみちゃん・・・シチューよ。おいしいねー) 「言いました・・・。」 「あなたがまゆみちゃんに(シチューはおいしい食べ物)ということを伝えたのではないですか?」 「はい・・・。」 「まゆみちゃんは、あなたが(おいしい)と決めたものだから、それを信じているだけなんですよ。シチューのおいしさに客観的な定義はありません。それを定義づけるのは親の仕事なんです。だから母親は誰も皆、子供に食事をさせる時、そこに同席して(おいしいね)と、語りかけるんですよ。」 「・・・・・。」 「大好きなシチューを食べてる時、まゆみちゃんはどんな様子でしたか?」 「嬉しそうでした・・・笑顔で・・・。」 「お母さんであるあなたと、シチューという食べ物は本来は無関係に存在していますね?」 「はい・・・何となくわかります・・・。」 「では、シチューを食べている時、まゆみちゃんの中でその二つは無関係だと思いますか?」 (ママの作ったシチュー、おいしいねー!)(ママの作ったシチュー、食べたいの) 「む・・無関係ではないと思います・・・」 「そうです。関係があります。むしろこの関係から(おいしさ)が発生しているんです。」 「はい・・・。」 「あなたがまゆみちゃんのことを愛して、心から思いやりを持って作ってしるから、まゆみちゃんはそれを嬉しいと感じ取り、その時の味を(おいしい味)と感じているんですよ。あなたのシチューを私が食べても、それは確かに美味しいでしょう。でも私はまゆみちゃんほどの(おいしさ)を感じることはできません。私はあなたにそれほど愛されていませんからね。」 「カブトムシにスイカをあげる時のまゆみちゃんは、あなたがまゆみちゃんに捧げるような愛情を 持って、それを行っていたのではないですか?」 (あ!ママ!カブトムシがスイカを食べてるよ。カブトムシはスイカが好きなんだねー!) 「カブトムシがそれを食べる様子を見たまゆみちゃんは、カブトムシの(嬉しさ)を感じます。 カブトムシの(おいしさ)も感じます。」 「はい・・・そうだと思います・・・。」 「そして何より、自分を愛してくれるカブトムシの愛を感じます。つまりまゆみちゃんとカブトムシの間に心の交流ができます。あなたはカブトムシに心なんてないと言います。しかし、まゆみちゃんは、その心を感じるんです。感じられるのです。まゆみちゃんはカブトムシのお母さんなんです。自分が本当の母親になった時のことを想定して、女の子はみんな「お人形さんごっこ」をやります。この時お人形さんは必ず自分の子供なんですよ。わかりますか?」 「はい・・・。」 「あなたは、その大切な関係性を壊してしまった。愛情や思いやりや嬉しさやおいしさ、この意味を壊されたまゆみちゃんは、あなたからの愛情を感じることができなくなっている。」 「わ・・私は・・・どうすればいいでしょう・・・?」 自宅に戻り娘を寝かしつけた母親は、その寝顔を見ながら再び、小さく呟いた。 (私はどうすればいいのだろう・・・) 笑わなくなってしまった娘・・シチューをおいしいと言ってくれなくなってしまったまゆみ・・・。 (まゆみ・・・まゆみちゃん・・・ごめんね・・ごめんね・・・) 母親は泣きながら、娘の額を撫でた。部屋の片隅には小さな虫かごがあり、その小さな空間の中でカブトムシは、時々、モソっと、黒い体を動かすだけだった。 翌朝・・・ 「まゆみちゃん。カブトムシさん、元気がないみたいよ。スイカはあげてるの?」 「あげてない・・・」 「ど・・・どうして?」 「お腹が空いてないから・・・・」 まゆみはもう、カブトムシの「声」を聞くことは出来ないのだろうか・・・?母親はふと、思い立って娘の部屋に向かい、虫かごの中を覗いて見た。昨晩、僅かに動いていたカブトムシが、今はまるで石のように動かない。 (死んでしまうかも知れない・・・いや、もう死んでいるのかも・・・) 言い知れぬ恐怖が湧き上がってくる。母親役のまゆみとの関係性を失った小さな虫が、ここで死んでしまうということが、自分の娘の死と重なる出来事のように思えた。自分との関係性を拒否する娘は、このままカブトムシのように死んでしまうのではないだろうか・・・!! 「ね・・まゆみちゃん。カブトムシさんにご飯をあげようよ。スイカ、まだ残ってるからさ!」 母親は慌てて冷蔵庫からスイカを取り出すと、それを小さく切って娘に渡した。 「ママがあげればいいでしょ・・・・。」 まゆみは母親の手に、それをつき返す。 「だ・・だめ・・まゆみちゃんがあげて。ね・・お願いだから・・・!」 もう一度、カブトムシのお母さんになってあげて! もう一度、カブトムシを愛してあげて! 母親は娘を抱きしめていた。抱きしめながら泣いていた。 (続く)
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まゆみちゃんの言語
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