羊の隠れ家

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■1982年(昭和57年)2月9日午前8時37分、片桐清二(当時35歳)機長が操縦する福岡発羽田行きの日航機DC8が着陸寸前に突然、失速、空港手前の羽田沖に墜落、死亡者24人、重軽傷者149人を出す惨事となった。
 
事故の原因は着陸態勢に入ったときに、片桐機長が突然エンジンを逆噴射させたためだった。ボイスレコーダーに「機長やめてください」という副操縦士の絶叫が記録されていて証拠となった。記者会見で高木社長は片桐機長が乗員健康管理室から心身症と診断されて経過観察中であったにもかかわらず運輸省(現在の国土交通省の前身のひとつで、運輸省は建設省、国土庁、北海道開発庁と統合されて国土交通省になる)などに報告を怠っていたことを明らかにした。
 
片桐元機長は精神鑑定の結果、妄想型精神分裂症と診断され不起訴処分となった。
 
 
この事故の直接の原因は機長の操縦によるものである。機長が機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったため、機体は急に下降して滑走路の手前に墜落した。機長は、まだ副操縦士であったこの事故の6年前に始めて幻覚を見ている。それ以後、初期の精神分裂病、うつ状態、心身症などと診断をうけ、聖マリアンナ医大病院の医師、会社の常勤内科医、非常勤精神科医らの診察、治療を受けたが改善せず、事故直前には「ソ連が日本を破壊させるために、二派に日本を分断し、血なまぐさい戦闘をさせているんだ」などの強い信念を抱くまでに至っていた。
 
事故当日の350便の乗務中には、ついには「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだほうがマシだ」という妄想を抱くに至り、しばらく恐怖に震えた後に現実に戻る、という精神状態にあった。羽田への着陸にむけ、高度200フィートに至り副操縦士が「ミニマム」とコールアウトした。本来は「ランディング」(着陸する)または「ゴー・アラウンド」(復行する)と答えるべきだが、機長は「チェック」というのみだった。
 
そして、350便が200フィート以下に降下した後、突然「イネ、イネ、……」という言葉が機長の頭全体に響き渡った。機長はとっさに「死ね、死ね、……」との命令と理解し、手動操作に切り替え、操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させた。
 
航空機関士が直ちに機長のこの異常操作に気づき、機長の右手を叩いて止めさせ、リバース・レバーを戻した。副操縦士は機首が急に下がったことに気づき、反射的に操縦桿を引き起こそうとしたが、機長が操縦桿を押し込む力が強く、引き起こすことができなかった。
 
副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫ぶと、機長は操縦桿への力を緩めた。しかし、ミニマムのコールアウトからたった8秒間足らずの異常操作であっても、機を海面に叩きつけるには十分であり、8時44分7秒、日本航空350便は滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落した。
 
片桐機長は事故前日、事故時と同じ乗務員で羽田発福岡空港行き377便に乗務しているが、その際も異常な行動が見られた。離陸時、管制からの許可が下りていないにもかかわらず「許可はきてるね?」とつぶやきながらパワーレバーを操作しようとしたところを副操縦士と航空機関士に制止された。
 
離陸して間もなく対気速度250ノット、バンク角25度の右旋回上昇を行う予定であったが、操縦桿を握っていた機長は70度(通常の飛行では最大30度程度)近くに達するまでバンクさせたため、副操縦士が横から修正を行っている
 
。この直後、副操縦士は機長に対して大丈夫かと問いかけたが、機長は落ちついた様子で「大丈夫です」と答えたという。だが、機体はバンク角過大のため内側にスリップし、15秒間で800フィート(約250メートル)降下している。 福岡到着後、この異常操作に関して副操縦士が航空機関士に対して「あのままほってたら90度までいってたかもしれない」ともらしていた。副操縦士は「一時的な三半規管の狂いだろう」、航空機関士は「なんととろいキャプテンなんだ」、と感じたという。
 
福岡に到着後降機した際、機長は副操縦士に対して「お見事」と言ったという。事故を起こした機長は、数度の異常な言動や操縦を行っていたが放置されていた。事故の前日にも、飛行中に機体のバンク角を70度近くまで取って旋回させるという、旅客機としては異常な操縦も行っていた。この操縦で乗客からのクレームもあったが、副操縦士が会社に対して報告を行っていなかったため、黙殺される結果となった。
 
その理由として、「日本航空の会社としての異常な体質」、「日本航空において機長は管理職であり、副操縦士は評価をされる側であり言いにくかった」などが考えられている。
 
DC-8は、1950年代後半に開発されたジェット旅客機の黎明期の機体である。このため、機構的には1972年に発生したモスクワのシェレメーチエヴォ国際空港の日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故の際に原因とされた、飛行中のグラウンドスポイラー作動など、後継となった機種では不可能にされている危険な機器操作が可能であった。本件においても、飛行中でも減速目的のために逆噴射機構が作動するように設計されていたことが、不幸な結果を招くことになった。
 
(資料より引用)
 
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■要約すると「極めて不安定な精神状態のパイロットが、極めて完成度の低い旅客機を操縦していた」ということになるのだが、機長は精神分裂で不起訴になることはやむ終えないとしても、その機長を(精神異常の兆候があることを知りながら)コックピットに座らせていた航空会社の責任は、どのように示されたのだろうか?
 
尚、精神鑑定により精神分裂病とされ、心神喪失の状態にあったとして検察により不起訴処分となった片桐機長は、パリ人肉事件の佐川一政と同じ松沢病院に入院。 数年後になってようやく解雇されたという。情報によれば日本航空の年金を受け取って、葉山の自宅で悠々自適の生活を送っているとのことだ。
 
それはともかく・・・
 
着陸直前の逆噴射?
その原因が機長の精神異常だと?
 
そもそも、この事実こそが「異常」である。これほど深刻な精神異常が放置されたまま業務に就かせていたという「異常事態」について、当時のメディアはなぜとことん追求しなかったのだろうか?例えばこれがタクシー会社やトラック会社で起きた事故だと仮定しよう。
 
精神異常者を(そうと知りつつ)運転させ〜事故を起こし〜多くの死傷者を出したなら、その会社は最低でも業務停止処分となるだろう。
 
「なぜ、そうならないのか?」
 
■「本当に不思議だ」と感じるべきである。そのような問いかけをすれば多くの人が「確かに不思議だよな」などど言う。
 
しかし・・・
 
では、例えば欠陥原子炉を(そうと知りながら)運転し、重大な事故(メルトダウン)を引き起こし、膨大な放射能を環境へばら撒いた悪質な会社から、誰一人として逮捕者が出ていないことを、なぜマスコミは追求しないのか?そして世間はそれを(そのような状態を)許容しているのか?
 
そんな「不思議」がある場所には、必ず「不思議な数字」がある。
 
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■この事故の前日に東京のホテルで火災があり「33人」の犠牲者が出ている。ホテルの名は「ニュー・ジャパン」だ。
 
HOTEL NEW JAPAN=144=18=6・6・6
 
次回はこの火災の「数字」を検証する予定です。
 
 

 

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■連合赤軍 【5】

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死亡者
 
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■さて、現場となった「あさま山荘」には管理人(女性)がいた。この女性が唯一の人質となってしまったわけだが、女性は夫と二人で、あさま山荘を管理していたということだ。
 
この二人が管理人となる経緯について、ネットから得られた情報を要約すると・・・・
 
長野県軽井沢のはずれに、東京の喧騒とは無縁の村があった。人口90人の馬取(まとり)地区である。村の若者たちは皆、都会へと出て行ってしまった。村人は、過疎化が進む村の活性化のために裏山を切り開き、別荘地の造成に乗り出した。
 
軽井沢の中心から離れたこの土地には、サラリーマンの保養所がいくつか建てられた。そして昭和43年、あさま山荘の建設工事が始まった。
 
その工事も終了に近づいたある日のこと、現場で声をかけてきた若い夫婦がいた。
 
「ここの管理人に雇ってくれませんか」・・・これが牟田泰子(むた やすこ)だった。
 
福岡でサラリーマンをしていた夫の郁夫は、妻の親の面倒を見るため長野に移ってきたという。
泰子は調理師の免許を取っていたこともあり、二人は希望通り、管理人に採用された。管理人に採用された二人は、ある日子犬をもらってきた。チロと名づけ、チロとの散歩が牟田夫婦の楽しみとなった。年寄りばかりの村に、若い夫婦がきて、馬取の人々は喜んだ。
 
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■福岡のサラリーマンが生活の諸事情から長野に移り住み、夫婦で働ける職を求めた結果「山荘の管理人」となった。
・・・というような説明は受け入れられない数字がここにある。この二人もまた「連続ドラマ・あさま山荘事件」の役者として「採用」されていたということだ。
 
 
 

■連合赤軍 【4】

■結論から言えば(このシリーズで取り上げているのだから、結論はすでに決まっているのだが)この「あさま山荘事件」とは「テレビ連続ドラマ・あさま山荘事件」であるということだ。この「短期・連ドラ」はとてつもない数字=視聴率を叩き出している。
 
「連合赤軍、あさま山荘事件」の概略を書くために例によって「WIKI」を開く。するとこの事件の説明文に次のような解説が書き並べてあるのだ。
 
「酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した。

同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。」
 
 
上記の説明文の意味を「よーく考えてくれたまえ!」
 
どこかで何らかの事件が起きた。その事件を説明する際に「視聴率」についての説明が必要だろうか?しかも「詳しく、細かく」である。試しに他の人質事件を検索してみたまえ。「テレビの成績」など書かれているはずがないのだ。
 
「これは、どーゆーことなのですか?」
 
「ウィキペディアは誰でも編集できるフリー百科事典です」と書いてあるが、この事件を編集した「誰か」は、上記のような「テレビ業績数値=視聴率」をわざわざ調べたということになるが、なぜ、この事件に限ってそれをする必要があるのだ?
 
そして、その疑問は次の疑問を誘発する。
 
「あの鉄球作戦の意味は何だ?」
 
誰がどう考えても、あの鉄球作戦が「人質の身の安全のため・・・」だとは思えない。建物の内部に侵入する方法なら他にいくらでもあるだろう。
 
「あの、やけにドラマチックで映画みたいな作戦の意味は何だ?」
「その意味はね、あれがドラマであり、映画であるという意味ですよ」
 
 
 
 
 

■連合赤軍 【3】

■加藤 能敬(かとう よしたか、1949年 - 1972年1月4日)は、日本の革命運動家。連合赤軍メンバー。
 
愛知県刈谷市出身。東海中学校・高等学校を経て和光大学文学部入学。京浜安保共闘に参加。あさま山荘事件で逮捕された加藤兄弟(加藤倫教、加藤元久)は彼の弟達で、「加藤3兄弟」と呼ばれた。女性メンバーと交際していたのが元で、山岳ベース事件でリンチに遭い、死亡。なお、相手は1月1日に殺害されている。父親は小学校教師であったが、あさま山荘事件直前に引責辞職していた。

■加藤 倫教(かとう みちのり、1952年 - )は日本の左翼運動家。元連合赤軍メンバー。
 
愛知県刈谷市出身。東海高校在学中に長兄加藤能敬の影響で中京安保共闘に入った。卒業直後、爆発物所持で逮捕される。山岳ベース事件で長兄が殺された時、弟の加藤元久と逃げだそうとしたが果たせず逃亡の最中、あさま山荘に立て篭もり警察と9日間に渡る銃撃戦を行う(あさま山荘事件)。1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。
 
現在は実家の農業を継ぐかたわら、野生動物・自然環境保護の団体(日本野鳥の会愛知県支部、カキ礁研究会)に所属して活動しており、それらの団体で役員を務めている。

■加藤 元久(かとう もとひさ、1956年 - )は、日本の左翼運動家。連合赤軍メンバー。
 
愛知県刈谷市出身。愛知県立東山工業高等学校在学中に兄の影響で街頭デモなどを行うが、それを咎めた父親と喧嘩し家出、そのまま中京安保共闘に参加。
山岳ベース事件で長兄が殺された時、次兄と逃げだそうとしたが果たせず逃亡の最中、「あさま山荘」に立てこもる。逮捕時は16歳であったため実名は伏せられ、保護処分扱いとなった。
 
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■上記の解説でも分かるように、そもそも「あさま山荘事件」とは「連合赤軍」という組織から脱退〜逃亡しようとしたメンバーが、その逃亡の過程において偶発的に引き起こしたものと説明されている。ここでもう一度、連合赤軍【1】で示した分析図を見てみよう。
 
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■果たしてこれが「偶発的」の結果なのだろうか?例えば「日航123便墜落事故」において、同便(ボーイング747)は垂直尾翼を失い、迷走飛行の末に「高天原山(御巣鷹の峰)」に墜落したと説明されているが、高天原山の変換数が123であり、その座標が「北緯36度、東経137度(36=9、137=11)」という数字が現出している。犠牲者(破壊の対象)と、破壊の場所を一致させる。これは33組合の引き起こすテロにおいてはもはや常識であり、疑う余地のない事実である。
 
例・・・ケネディ大統領暗殺
 
氏名=KENNEDY=33
日時=11月22日=11+22=33
場所=ダラス=北緯33度
 
 

■連合赤軍 【2】

森と永田が逮捕された時、妙義山中のアジトに切り裂かれた衣類が見つかった。衣類には大量の糞尿がこびりついていた。この時、群馬県警・中山和夫警備二課長は誰かが殺されているものと見た。これは人が死ぬ時には大量の糞尿が排泄されるが、遺体から着衣を剥ぎ取る時にそういう風に切って脱がせるからだった。
 
森や永田は頑として何も話さなかったが、3月に入ると、奥沢修一やあさま山荘に立てこもったMが同志殺しを自供し始めた。
 
3月7日、群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1mほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生 27歳)のものである。遺体は手足が縛られており、死因は凍死だった。
 
衣類はナイフで切り裂かれており、このことを先に逮捕されていた森恒夫と永田洋子らに示すと、異様な反応を示した。

さらに追及した結果、自供から「総括」と呼ばれるリンチの実態が浮かんできた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、12人が死刑、または総括で死亡していたのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた警察庁長官・後藤田正晴は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。
 
また亡くなっていた山本順一の妻・保子が10日に名古屋・中村署に出頭、その長女・Rちゃん(当時3ヶ月)は千葉・市川署に保護され、Rちゃんを連れ出していた中村愛子も出頭した。他にも岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。
 
そして凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。

◆山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日
▽1971年12月31日  尾崎充男   (22歳・革命左派)
▽1972年1月1日    進藤隆三郎  (21歳・赤軍派)
▽1972年1月1日   小嶋和子   (22歳・革命左派)
▽1972年1月4日   加藤能敬   (22歳・革命左派) 
▽1972年1月7日   遠山美枝子  (25歳・赤軍派)
▽1972年1月9日   行方正時    (25歳・赤軍派)
▽1972年1月17日  寺岡恒一   (24歳・革命左派)
▽1972年1月19日  山崎順     (21歳・赤軍派)  
▽1972年1月30日  山本順一   (28歳・革命左派)
▽1972年1月30日  大槻節子   (23歳・革命左派)
▽1972年2月4日   金子みちよ   (24歳・革命左派) 
▽1972年2月12日  山田孝     (27歳・赤軍派)
 
 
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