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気がつくと「私」は、自分の部屋にいた。両手がまだ、かすかに震えている。 ソファに身を沈め、つい数十分ほど前の出来事を思い出そうとした。 殺した・・私はあの男を殺したのだ・・・。 ガラステーブルの上に「ナイフ」があった。あの男が私をあざ笑った瞬間、ナイフが目に入った。 そうだ・・確かに私は、そのナイフを手に取り・・・。そして・・・。 ああ・・何てことをしちゃったんだろう。ナイフには私の指紋が残っているはずだ。 調べれば、誰が犯人かはすぐにわかるわよね・・・。 あんな男のせいで、この私が裁かれるのお! 信じられない!冗談じゃないわよ! あんな奴、死んで当然じゃないよ! そうよ・・私は無罪よ! 大丈夫よ・・ 「パパの会社の一流の弁護士がいるわ・・」 いいえ・・無理よ。殺人事件なんだから・・ 実名報道・・そう・・ニュースになるじゃない! パパの会社は? 報道されるの? 私・・どうなっちゃうのよ! いやよ・・逮捕なんて・・。 刑務所・・!? いやいやいやいやぁぁぁぁー・・・!! ああ・・どうしよう・・・神様・・・。 その、留美子はふいに人の気配を感じて目の前を見た。 そこには、安っぽいよれよれスーツを着た中年男が、自分を見下ろしているではないか! 「だ・・誰!どうやって入って来たの!け・・警察を・・」 警察を、と言い掛けて留美子は押し黙った。警察は呼んでは駄目。警察だけは・・! 中年男は、にこやかな笑みを浮かべながら、留美子を覗き込んだ。 「お姉さん。あんた、今、わいのこと呼びましたでしょ?」 関西弁だった。とぼけた顔つきが関西の有名な漫才家いよく似ている。 「お姉さん。あんた、今、わいがアホの坂田に似てると思ったでしょ?」 「ふむふむ・・人を殺しちゃったわけでんな〜?」 「いやいや・・死んだ者は生き返りませんって。」 「それで、何とかしたいってことですかいな?」 「大丈夫。やり直せますって。」 「いい方法がありまっせ〜!」 「ほな、説明しましょか?」 「ええ・・時間をね・・」 「逆向きにして・・・」 「あの時を・・・・」 「もう一度・・・」 「やり直せる・」 「さあ・・」 「・・」 |
アホの坂田が怒ってる
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逆向きに帰宅し・・いや・・出社し・・いや帰宅し・・ 逆向きに目覚めてから眠り・・ 逆向きに眠ってから目覚め・・ スコッチのビンの中にウイスキーを吐き出し・・・ クロークの中から「相沢留美子」の死体を引きずり出し・・・ 死体の首に両手をまわし・・・ 生き返った留美子と、視線がぶつかった時、ようやく「時間の向き」が正常になった。 「貴方の子供がいるみたい。」 「今日、病院へ行ってきたわ。」 「6ヶ月目に入ったそうよ。」 「私、生みますからね。」 「もちろん、認知してもらうわよ。」 「養育費とかも考えてね。」 「責任はちゃんと取ってくださいね。」 「逃げたりしても無駄ですよ。」 「弁護士にも相談して・・・。」 私は、同じ過ちを繰り返さぬよう、込み上げてくる怒りを押さえるために留美子に微笑んで見せた。 「何が可笑しいの?」 「え・・いや・・別に可笑しくはないよ。」 「貴方、今、笑ったわよね?私を笑ったでしょ!」 普段はヒステリックに喚く留美子が、感情を抑えて私を睨み付けていた。 「いや、別に深い意味はないよ。君の言い分はわかった。今日はもう、これで終わりにしよう。」 ここで彼女が帰ってくれれば「あの事件」は起きないのだ。私は彼女に背中を向け、壁のハンガーに掛けてある彼女のコートを手に取った。 「さあ、あまり遅くなるとご両親が心配するよ。」 私はそう言いながら、彼女にコートを差し出した。その直後・・・。 私の差し出したコートを振り落とし、彼女が私にぶつかってきたのだ。 私のスーツの生地を突き破り、熱い痛みが私の腹部に侵入してきた。 「る・・留美子・・・!」 声が出なかった。私は、猛烈な痛みが走る自分の腹を覗き込んだ。そこには「そこにあってはならない物体」が、私の腹に突き刺さっているではないか! 「あ・・貴方が悪いのよ。私を馬鹿にするから・・。」 ナイフ・・私は血が溢れ出る腹部を押さえながら、自分が刺されたことを悟った。 意識が遠くなってゆく。おかしい・・・うまくいくはずだったのに・・・ な・・何のために・・「ここ」に帰ってきたんだ・・・・ 医者を・・い・・医者・・・ だれかあ・・・・・・ たすけ・・・・・ いたい・・・・ しぬう・・・ うう・・ う・ ・ (静寂)
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後ろ向きに歩きながら、会社の玄関を潜り抜け、自分のデスクに座る。パソコンのスイッチを「切り」、画面に現れた計算結果を見ながら、計算式を入力し、入力を終えてから計算ソフトを立ち上げ、再び立ち上がると後ろ歩きでトイレへと向かい・・・(描写は省略!) 気が狂いそうだった。いや、もう狂っているのかも知れない。早く・・早く「あの時間」になってくれ! 「いかるでんすすはんさいけのいれ」 「かいなわあきついぱっい、んばんこ」 「かいなてっも、うょりしのんけほいがんそかれだ、いーお」 オフィスには、わけのわからない「音声」が飛び交っている。いや、実際には部屋に音が響いているわけではない。それを聞いているのは私の「脳細胞」だけなのだ。誰もが口をパクパクさせながら、その音を「吸い込んで」いるようだった。皆の動きがぎこちなく感じるのは、重力効果が逆向きになっているからだと気がついた。上から下へ落ちた物は、下から上に舞い上がるのだ。誰かが丸めてゴミ箱に投げ込んだ紙くずが、ゴミ箱から飛び出して、誰かの手の中へと帰ってゆく。 誰かが契約書類を作成している。書類にペンで書き込まれた文章は、紙の表面からペンの先へと、インクとなって戻ってゆき、書類は白紙となり、やがて契約も白紙となる。 私はふと、考えた。重力そのものの向きは変わらないのだろうか・・?光も音も・・すべてのエネルギー反応が逆向きなら、重力だって逆向きになりはしないか?だが、すぐにその疑問の間違いに気がついた。質量があれば重力がある。時間の方向がどうであれ、質量から重力を差し引くことはできないのだ。 で・・ではなぜ、物体が下から上に舞い上がるのだ・・・。 もう、どうでもよくなってきた。そもそも、この現象を理解しようとする方が間違いなのだ。 ようやく昼休みの時間となった。(昼休みが終了した時間である。) 社員たちが後ろ歩きで社員食堂に入ってゆく。(食堂から出てきた姿の逆である。) 社員たちが食事を始めた。(体内の養分を口から吐き出している。) 私は会社の近くにある公園のベンチに座り、逆向きに羽ばたきながら舞い降りてきた鳩を見つめていた。 もうすぐだ・・頑張れ・・・。 狂いそうな気分を押さえ込みながら、私は自分自身を励ました。意識だけが「正常な向き」という、この状況を乗り切り、「あの時間」まで到達せねばならない。座っている「私」の視線が、空を仰いだ。上空にはジャンボジェットが「後ろ向き」に飛んでいる。大気中に吐き出された熱とガスをジェットエンジンの噴出口に集めながら、バックで飛ぶ飛行機。もし、笑うことが許されたなら、私は大笑いしたであろう。しかし、それは出来ない相談だった。 過去の・この時間に・この場所で・私は笑っていないからである。
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私は立ち上がった。いや・・立ち上がったのは「私」だが、「私」が立ち上がろうと考えて立ち上がったわけではない。過去において「座った」という行動が逆行されているだけなのだ。 (喫茶店に入って座席に座った私)・・・時間は「この位置」から逆行を開始したのだった。 立ち上がった「私」は、後ろ向きに歩きながら喫茶店を出てゆく。コーヒーを運んでいるウエイトレスさんも、「後ろ歩き」しているではないか!私がレジの横を通り過ぎる時、脳裏に女性の声が聞こえた。 「せまいゃしっらい」・・意味がわからない。その声が聞こえた方向を「私」は見た。 (そうしようと思ったわけではない) すると、レジ係の女性の口がパクパクと素早く動いているのが見えた。 声は、喉の声帯が振動して音となり、音が口を通過しながら言葉となって、空気中に放たれる。空気を振動させた音は、私の耳に入り、鼓膜を振動させて聴覚神経を刺激し、微弱な電気信号となって脳に伝わる。 そこまで考えた時、すべてが理解できた。私の脳裏に過ぎった言葉が「逆向き電気信号」となって聴覚神経へ逆流し、それが鼓膜を振動させ、鼓膜の振動が空気を振動させて言葉となり、言葉が空中を伝わって、彼女のパクパクと動く口の中に帰っていったのだ! 「せまいゃしっらい」・・脳内で響いたこの音は「いらっしゃいませ」の逆向きだったのだ。 言葉を話すということは、大気中に二酸化炭素を放出するというこでもある。つまり呼吸もまた、逆向きなのだ。大気中に放たれた「彼女の息」は、物凄い勢いで彼女の口に集合し、その体内に戻ってゆくのだ。体内では、空気中から戻ってきた二酸化炭素が肺の中で血液に吸収されて、他の老廃物と共に細胞に吸収され・・・ うう・・では細胞は分裂せずに「融合」を繰り返すというのか! 血流も逆向き。心臓の鼓動も逆。ああ・・何ということだ! 外に出ると、そこには更に異様な光景が私を待ち受けていた。大通りを走る車はすべて「バック」しているではないか!大気中に放たれた排気ガスは、それぞれの車のマフラーの中に吸い込まれてゆく。私は、車のエンジン内部を想像して眩暈を感じた。シリンダーの内部では「爆発」したエネルギーが「収束」し、燃料と酸素とに分離され、それぞれが元の場所へと流れているはずだった。つ・つまりエネルギーは発生していないのだ!そ・・それなのになぜ動いているんだ! いや・・待てよ。ならば、人間だって同じはずだ。食事によって取り入れたエネルギー源を体内で分解しながら生きているのだ。養分が吸収されずに吐き出され、老廃物が排出されずに吸収される。こんな反応は有り得ないではないか!その時、私の視界に通りに隣接するレストランの店内が飛び込んできた。 客は皆、両手にスプーンやフォークを持ちながら、それを口元に運び、口から出てきた食物を皿の上に乗せている。皿の上では、次第にそれが「料理」という形になり、料理が完全に完成するとウエイトレスがそれを持ち去ってゆく。(もちろん、後ろ歩きで・・) 「風が吹いて、髪が乱れる」=「髪が乱れてから風が吹く」 「蛇口から水が流れ出す」=「流れ出た水が、蛇口に登ってゆく」 すべての因果関係が「逆」だった。いや・・因果関係などという概念は捨て去るべきなのだ。 もう、そのような「正常な関係性」は、ここには存在しないのだった。 南風は北風となり、浜辺に寄せる波は、浜辺から沖合いに寄せるのだ。 私は、逆向きに歩く人並みにまみれ、やはり逆向きのまま通りを歩いている。ふいに、道の片隅にへばりついた染みが浮き上がり、飛び上がって、私の前を歩く男の口の中へ入っていった。それは男が過去において吐いた「唾」だった。
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「いいですか、旦那。旦那はこれから時間を遡って、過去に戻るんです。例のSF小説みたいなわけにはいきませんよ。タイムマシーンなんてものは、非現実的な想像物に過ぎませんからね。」 (では、どうやって過去に戻るのですか?) 「旦那が戻りたい時間は、昨日のちょうど今頃ですよね?これから時間を巻き戻してあげますよ。時間の進行方向は逆になりますがね、進行速度は同じです。つまり、旦那が行きたい時間に到着するまで約23時間くらいかかるってことです。」 (つまり、23時間、逆向きの世界を見ることになるんですね?) 「ええ、そうですよ。この間、旦那は逆向きの世界を経験することになります。」 (でも、時間は宇宙全体に流れているのでしょう?他の人間も皆、逆行してしまうではないですか?) 「ええ。もちろん、宇宙全部が逆行しますよ。」 (世界はパニックになりますよ・・・) 「いえいえ、他の方々は時間の逆行に気づくことはありません。世界中の他人、つまり旦那以外の人間は 昨日から今日という流れを二回経験することになりますがね、どちらが一回目でどちらが二回目を知る方法なんてありません。二回繰り返したという事さえ、知らないのですから。」 (どうしてですか?世界が逆向きになれば、誰だって気づくでしょう?) 「旦那〜(笑)意識ってやつには方向性があります。逆向きの意識なんて頓珍漢なものはこの世にはありません。腹が減ったから・食べようと考えて・食べるんですよ。食べたから・腹が減って・腹が減ったと考えるわけじゃないんです。わかりますよねえ?旦那?」 どうやら時間が逆行している間、人間は思考から切り離されてしまうようだ。しかし、考えてみればそれが当然のような気がした。逆向きに走る車を運転する運転手が「前方を注意する」なんて、ナンセンスではないか! 「ですから、旦那の意識領域だけは、時間の向きを正常にしておきます。そうすれば旦那は時間の逆行を確認しながら、好きな時間に行けるでしょ?」 そ・・その、目的の時間に到着したらどうなるんですか? 「そりゃ、もちろん、時間の方向が正常になりますよ。その時が旦那、チャンスってやつです。」 神様は、なぜか嬉しそうに笑っている。 「さて・・そろそろ行きますか?旦那?」 神様は、そう言うと立ち上がって、ゆっくりと目を閉じた。直後、私の視界からすべてのモノが消え、私は漆黒の闇の中に放り込まれていた。 「旦那・・ちょっとだけ我慢してくださいね。宇宙の全エネルギーが逆向きになってるんで、光が旦那に届かないんですよ。」 ひ・・光も逆向きに走るのか・・と・・当然のことだったが、その様子を想像することはできなかった。 「でも、このままじゃあ、旦那は自分が目的の時間に到着したかどうかが確認できないでしょ。今、特別に旦那にだけは光が届くように工夫してますからね・・もうちょっと待ってくださいよ〜。」 床も天井も、壁も・・何も無い世界の中に私はポツリと浮かんでいるような感覚だった。その時、ふいに、足元から明るさが戻ってきた。床が見え始め、私のいる世界が戻ってきたのだ。 「じゃあ、旦那。23時間後ですぜ。今度はうまくやってくださいよ。」 神様はそう言うと、スーと消えてしまった。 は・・始まるのだろうか?本当に時間が逆行すると言うのか・・・?!
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