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丁度私が大学受験の為に上洛していた時の話です。大学受験と言えば、前日まで追い込みで出来る限りを尽くすというのが世間一般の観念なのかも知れませんが、折角東京から足を運んで京都まで来ると言うのに宿に籠もって孤高に勉学に勤しむ程私は勤勉ではありませんでした。受験の前日、前々日に京都に入り、時間の限り京都巡りに明け暮れます。
そんな試験前日の折、銀閣から哲学の道を散策した末に「新島襄先生の墓」という案内が目に入りました。新島襄と言えば同志社の創設者です。高校時代、新島襄が好きで、その案内に惹かれるがままに道を進みました。当時、受験の為という事にして運動不足だった私が踏み込んだのは、険しい山道。山道を進む事20分、漸く山頂の新島襄の墓に辿り着き、試験への体力を使い果たしてしまった記憶があります。
新島襄は京都に縁のある人物で、京都御苑の近くにも旧邸や記念館が残っています。明治の六大教育家に数えられ、明治5年(1872年)に岩倉使節団の一員として渡米し、明治8年(1875年)に高松保実邸の一部を利用して同志社英学校を創立します。当時は、未だ京都帝国大学や立命館大学も無い時代ですから、実にこれが京都初の大学の流れです。同志社は創立以来、英語や神学の分野で多くの人材を輩出し、京都の欧米文化融合の一端を担います。
第二次世界大戦に於いて、西陣空爆などがあったにせよ京都が空襲の大きな被害を免れた理由として、日本最大の文化都市だったと言う事が挙げられますが、実はそれ以外に、外国人居留者が多かったと言う理由もあるという話を聞く事もあります。確かに、原爆の被害に遭った広島を見ても、当時広島に居留していた欧米人は捕虜として囚われていた僅か数人だったそうです。
不謹慎ではありますが、京都の平安以来の文化と一見すると混在出来そうもない欧米の文化が、ある面では戦時中の京都を救っていたとしたら皮肉なものです。京都が欧米の文化と折衷し易かった背景の一つとして、同志社の影は見え隠れします。尤も、私はこうした京都の西洋情緒も好きなので、余り抵抗は抱いていません。ともあれ、ひょっとすると何の接点も無いかも知れませんが、新島襄一人の力が良い意味でも悪い意味でも、私が愛した今の京都の姿に影響を与えているかも知れないと思うと、こうして山道を歩いて墓を訪れた甲斐もありそうです。
序に、先日久し振りに出掛けてみたら猪の隔離策として山の入口に電気柵ゲートが設けられていました。何処に触れると電気が流れるのかよく分からずゲートを開けられないまま、物凄い不安に陥りましたが、幸い先に山に入っていた外国人の方が下山して来たので教えて頂きました。入山の際はご注意を。
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歴史的な場所が、京都でも石碑1つになってしまう・・・寂しいことですよね(><)開発も必要だとは思うけど、でも歴史まで消さないで欲しいって思います。せめて京都だけでも。。。
2006/1/18(水) 午前 1:30
三条へ行かれたのですか。歴史的な史跡が、パチンコ店になってしまうのはあまりにも残念です。近江屋跡も旅行会社になってましたし。南座のそばに、近頃パチンコ店のビルが建ってしまい、目立って景観を損ねますね。
2006/1/19(木) 午前 0:17 [ - ]
ここでしたか〜話しには聞いたんですが…こんなに小さい石碑なんですね〜
2006/1/19(木) 午前 1:52
パチンコ店か、悲しいな。京都タワーに代表されるように、京都に似合わないことはやめたいですね。
2006/1/19(木) 午前 6:57
MOONさん、確かにその通りだと思います。尤も、石碑一つでも残しておいてくれると偲べるだけありがたいとも思います。例えば、何も歴史は一つの時代で完結した訳でもなく、平安の時代に有力貴族の邸宅だった場所が幕末には密会の舞台だったり。そういう意味では全てを保存する事は不可能ですが、だからと言って今のビル群が後世文化財として親しまれる気はしません。
2006/1/20(金) 午前 3:04
レグルスさん、近江屋の跡は又別の機会に掲載しますので、乞うご期待です。
2006/1/20(金) 午前 3:05
みっち〜さん、ここでしたよ。NHKのお陰で、今では隊士の説明版が一枚増えました。
2006/1/20(金) 午前 3:07
hakataminosimaさん、京都に限った事ではありませんが、多くの方にもう少し文化意識を持って欲しいです。
2006/1/20(金) 午前 3:09
記事を差し替えました。元の記事はhttp://blogs.yahoo.co.jp/takuya_o0917/21935813.htmlまで。
2006/10/12(木) 午後 6:29