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大久保利通と言えば、桂小五郎、西郷隆盛と並んで維新三傑と称される明治維新の立役者です。この大久保利通の旧邸跡が、京都御苑の東、今出川通から木屋町を少し下った場所に残っています。明治14年(1881年)までは旧邸が残っていたそうですが、今は石碑がその場所のみを物語っています。
幕末の気風が高まっても大久保利通は京都にそれ程頻繁に足を運んでいた訳ではない様です。本格的に京都で政治活動を行うようになったのは、文久3年(1863年)の第一次長州征伐の始末を巡っての事。寛容的な処分を考えていた薩摩に対し、ここぞとばかりに厳罰を主張する幕府側との間に確執が生まれ始めた頃だそうで、政治の為に上京し京都御所の直ぐ東に住み、時世を見極めつつ、公武合体の為に東奔西走していた様です。新政府の樹立に際しては、岩倉具視と密接に関わり、慶應3年(1867年)の大政奉還の後には王政復古を切望し、戊辰戦争への引き金ともなりました。
維新後は、木戸孝允らと共に新政府の制度改革に悉く尽力し、例を挙げれば、版籍奉還、廃藩置県に始まり、現在の官僚制度の礎となった内務省を設立すると、内務卿として徴兵令や地租改正も行いました。又、岩倉使節団に参加し、海外視察も経験しています。明治11年(1878年)に紀尾井坂の変で命を落とすまで、日本の中枢を担う政治家として活躍しています。
一方で、維新の同士だった西郷隆盛とは、征韓論を巡って対立し、明治6年(1873年)の政変によって西郷隆盛を政府側から失脚させ、後の西南戦争では西郷隆盛率いる薩摩の軍勢を、政府軍を指揮して制圧するなど、西郷隆盛を死に至らしめた人物という側面もあります。或いは、土佐藩の坂本龍馬の暗殺を企てた張本人だという説もあります。
自然、世間的な印象の良くない大久保利通ですが、明治維新の成功者達が、新時代に酔い、金や権力に溺れた中、一人、私財を投資してまで日本の制度改革に尽力した等、日本の将来を真剣に考えていた一面もあった様です。新国家を樹立するという大仕事ゆえに、西郷はじめ、かつての同志らと対立する事は宿命だったかも知れませんが、権力や金を利用したとは言え、あくまで私利私欲ではなく国の為に殉じた大久保利通の姿勢は、現代の政治家達も見習うべき部分があるのではないでしょうか。
余談ですが、明治維新から1世紀半、今尚、所々にこうした石碑を残してくれているのは実にありがたい事です。これらの小さな石碑から、幕末当時の街並すら空想する事も出来ます。しかし、こうした歴史の残り香の多くを、肝心の京都に生まれ育った人達は概して知りません。他の土地なら、地元の人間に聞けば史跡にまつわる由無し事まで色々に知っているものですが、京都では近所にこうした石碑が残されていても、住人が知らない事もしばしばです。
自然、京都で、数少ない史料や地図から石碑などの小さな残り香を辿ろうとするのは難しく、いつの日かこうした残り香すら綺麗さっぱり消えてしまうのではないかという不安も感じ、一方、石碑達を回る度に何処か責任感に火が付きます。
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木屋町大久保邸の存在は、先日、高知を旅した際に知りました。京都に住んでいながら維新三傑の足跡を、土佐で知る事になるとは恥ずかしい限りです。帰京して直ぐに自転車で探して来ました。
2006/9/15(金) 午前 4:49
もう、歴史がヤバい笑笑笑笑
2018/7/29(日) 午後 4:36 [ ヤーミン ]