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久坂玄瑞は、松下村塾出身の長州藩士で、長州四天王にも数えられる尊皇攘夷派の中心人物です。元治元年(1864年)の禁門の変で負傷し、劣勢のまま自害した為、生き抜いた桂小五郎や異端児の高杉晋作の様な高名は轟いていませんが、長州のみならず幕末を語る上では欠く事の出来ない傑人です。
藩医の家に生まれ、明倫館で学んだ後に遊学し、宮部鼎蔵との出逢いから同郷の傑人、吉田松陰の存在を知るに至ります。明倫館出身の秀才でありながら、そして藩医家という社会的地位を持ちながら、遊学を終えると久坂玄瑞は、吉田松陰が引き継いだ松下村塾に通うようになり、吉田松陰はその才能を、「長州第一の俊才」と非常に高く評価しています。司馬遼太郎の『世に棲む日日』では、高杉晋作を松下村塾に招いた友人としても描かれています。
久坂玄瑞は、吉田松陰の妹の文と結婚しており、私的にも吉田松陰と関わりが深かったといわれており、これは久坂玄瑞を才人として寵愛していた吉田松陰の気質の象徴とも言えそうです。
吉田松陰は、俊才の久坂玄瑞と異端児の高杉晋作を対照的に育て上げ、尊皇攘夷に走る幕末の土台を築き上げ、安政5年(1858年)の安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、藩を率いての尊王攘夷運動の先駆けとして活躍し、英国公使館焼き討ち事件、翠紅館会議、外国艦船砲撃事件など、禁門の変までの数多くの事件に首謀レベルで関わっています。
長州四天王と呼ばれる者達のうち、桂小五郎以外は松下村塾の出身ですが、幕末の長州に圧倒的な影響を与えた吉田松陰から踏襲しているものは、それぞれ異なる様です。殊に、高杉晋作と久坂玄瑞を比較すれば、高杉晋作が吉田松陰のうちに秘めた思想の理念を引き継ぎ、自分流に展開していったのに対して、久坂玄瑞はあくまで松陰の言葉を正面から吸収した真面目な側面が目立ちます。
それだけに、妙案や奇策も無しに、信念を守る為には危険も恐れなかったし、ある時期までは高杉晋作よりも遥かに長州の指導的役割を担っています。一方で、こうした性格が、明治維新を見せずに25歳という若さで彼の生涯を終わらしめたとも言えるでしょう。幕末の傑人の中では、珍しく自害している辺り、僅かに生きる時代を違えた感は否めません。
余談ながら、久坂玄瑞はその活動拠点を京都としていた時期も長く、しかも桂や高杉よりも表舞台で活躍していた為、久坂玄瑞に縁のある話は幾つか残っています。例えば、当時派手に金銭を落としたと言われる長州志士ですが、密議を島原で行った痕跡などは、今尚石碑に刻まれ残されています。
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20000ヒット記念は禁じ手、霊山護国神社の記事です。幾松でも良かったのですが、250回記念にその関係をと決め、却下。あと霊山で紹介したいのは、大村益次郎、幾松、天誅組、海援隊……あれ、結構あるな。
2007/1/28(日) 午後 4:38
霊山護国神社はじっくり時間をかけて歩きたい場所ですね。私も2度行きましたが、まだまだゆっくり調べたいものです。ありがとうございます。こちらの記事は、とても勉強になりました。これからも楽しみにしています。m(__)m
2007/2/2(金) 午後 5:17
霊山歴史館とあわせると、幕末ファンにはかなり見応えがありますね!
2007/2/4(日) 午後 1:16
久坂のお墓は,萩にもありましたね。松蔭の生家近くに。松下村塾の双璧^^。ここのは供養塔?なんでしょうか?
2007/2/8(木) 午後 9:52
私も萩のお墓に行きました。霊山にある殆どの墓は、高杉や久坂をはじめ供養墓です。実際に納骨されているのは、大物では、坂本龍馬、桂小五郎夫妻、中岡慎太郎といったところです。
2007/2/15(木) 午後 2:26