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演繹法と帰納法について理解してもらったところで、もう一度、医学と心理学に話を戻そう。 医学は「理系」の科学だから、基本的には演繹法をメインに据えた科学だ。 心理学は「文系」の科学だから、基本的には帰納法をメインに据えた科学だ。 根本となる考え方が大きく違うということは言えると思う。 でも、演繹法と帰納法は、相容れないわけではないという話もしたよね? 特に医学と心理学では、演繹法と帰納法が交じり合う部分も多いんだ。 だから、あまり短絡的に考えすぎてもいけない。 ▽ くどいようだけど、もう少し具体的にゆってくれないかなあ? 何の話をしているのか、わからなくなってくる…。 医学は、基本的には「体」についての科学であるとは言えると思う。 生物としての「体」というふうに考えれば、主に生物学的なアプローチになるだろうし、薬の研究という面では、主に化学的なアプローチになるだろう。 しかし、いわゆる医師というのは、医学の中でも「臨床医学」という分野に基礎を置いている。 医師は、様々な症状の患者さんを診察して、実際になんらかの治療をしていかなければならないわけだから、日々、研究室に閉じこもって、研究にいそしんでいる多くの科学者たちとはちょっと違うんだ。 患者さんたちは決して、実験用のモルモットなどではない。 だから、臨床医学は、生物学や化学と言った自然科学の本流に比べると、その理系らしさは少し薄れてくる。 ▽ たしかにお医者さんは、いわゆる科学者っていうイメージじゃないなあ。 臨床医学というのは、自然科学的に実証された知識を、実際に応用する分野だ。 つまり、演繹法的な科学の考え方によって、その有効性が実証された治療法だけを使い、治療を行っていくわけだ。 けれども、様々な病気の中には、なかなか原因を特定できない病気もあるだろうし、原因を特定できても、現代の医学ではどうすることもできないケースも少なからず存在する。 治療法がわからないからと言って、病気に苦しむ患者さんを見捨てて、医師が治療放棄するわけにはいかないでしょ? 医師はそういう場合であっても、既知の医学的知識から、可能な限りの最善の対処方法を考えなければならないわけだ。 つまり、できる限り演繹法的なアプローチはする。 けれども、どうしても対処できない場合は、緊急避難的に帰納法的な考え方をしなければならない場合もあるということだ。 特に、精神医学の場合は、原因を特定しきれていない病気も多いから、どうしてもある程度は帰納法的に、診断や治療方針などを検討せざるを得ないケースも存在するということだ。 ▽ つまり、臨床医学は理系とはいえ、ちょっと特殊ということか。 つまりは、そういうことだ。 ▽ じゃ、心理学はどうなの? 心理学は、基本的には「心」についての科学であるとは言えると思う。 けれど、「心」は、自然科学的なアプローチで捉えることができるし、帰納法的ないわゆる「文系」らしいアプローチでも考えることができる。 だから、例えば、実験による実証に力を入れる「実験心理学」というような自然科学的な分野もあるし、社会と個人がどのような関係にあるのかを探る「社会心理学」というような、社会科学的な分野もある。 哲学的に「心」を考えていくならば、もはや人文科学的なものであるとも言えるかもしれない。 なんとも不思議な科学ではあるかもね。 ▽ 「心」が不思議なものだけに、アプローチもいろいろとあるわけだ。 そうかもしれない。 いわゆるカウンセラーやセラピストというのは、心理学の中でも「臨床心理学」という分野に基礎を置いている。 様々な心理学があるわけだけれども、臨床心理学についてだけ言えば、演繹法というよりは帰納法をメインに据えた科学ではあるとは言えると思う。 つまり、観察はするけれども、実験は殆どしない。 少なくとも、多くの大学などでは心理学はたいてい、文学部心理学科というような位置づけをしているところが多い。 ▽ 医師は臨床医学、カウンセラーは臨床心理学ということね。 えーと、ちょっと質問していい? どうした? ▽ さっきから「科学」という言葉が何度も出てくるけれど、文系の学問てさ、なんかこう「科学 」って感じがしないんだよね。 科学者っていうのはなんかこう、理系なイメージがするんだけど…。 まあ、一般的にはそうだろうね。 いわゆる「科学」というのは、狭義の意味では、自然科学を指す言葉だとは思う。 「文系」の科学の専門家のことは「科学者」と呼ばずに、「学者」と呼ぶのが一般的だろうな。 「経済学なんて科学ではない!」と揶揄する人もいるかもしれないし、語学なんて科学じゃないだろう?って思う人のほうが多いかもしれない。 けれども、経済学にしても、語学にしても、文系の科学もまた自然科学と同じく、決して机上の空論ではないし、単なる情報や知識の集まりというわけでもない。 それらの学問には、間違いなく、実際の経験から導き出された、他者と共有できるさまざな知恵が体系的に組み立てられているはすだ。 そういう意味では、あらゆる学問は、科学であると言えると思う。 ▽ んー。なんか無理矢理、納得させられたような気がしないでもないけど…。 はは。そこらへんは言葉の定義の仕方の問題にすぎない。本質的な問題ではないだろう。 ▽ まあ、いいや。 君がそんなに言うんだったら、この際、文系の学問も科学だということにしておくよ。 以上を踏まえて、医学と心理学の特徴をまとめてみよう。 演繹法によって推論をしていく「医学」の方が「正しさ」は高いかもしれない。 けれども、精神医学に限って言えば、脳の仕組みや人間の心の問題などの大局的な部分では、殆ど解明できていないことも多いんだ。 一方、帰納法によって推論をしていく「心理学」は、検証ができないゆえに、正しいかどうかは少し疑わしい面もある、ということは否めない。 けれども、脳の仕組みや人間の心の問題などの大局的な部分についても、ある程度は合理的に考えることができるわけだ。 ▽ なるほどね。相互に補い合う関係にあるのか。 本来はそういうことになると思う。 ▽ 「本来は」って? 精神医学と臨床心理学と、うまく連携がとれているといいよねってこと。 ▽ うまく連携がとれてないの? そこらへんはオレもよく知らない。 オレが知っている知識だけでは、帰納的な推論すらできないんだけど…。 ▽ というと? 医師による医療行為は、免許制度による独占業務なんだ。 それに対し、カウンセラーは資格制度に類するものはあるが、独占業務ではない。 例えば、医師と看護師は、完全に連携がとれている。 なぜなら、看護師は、医師の指示に従ってしか、一切の医療行為ができないからだ。 でも、例えば、精神科医と臨床心理士の場合はどうだろう? もし、仮に、精神科医の指示に従ってしか、臨床心理士がカウンセリングできないということになってしまえば、臨床心理士らしさというか、臨床心理士の独自性は無くなるよね? ▽ そうだね。 もし仮に、精神科医と臨床心理士の意見が食い違った場合は、常に、精神科医の意見が正しいということになってしまうかもしれない。 ▽ ああ、そうか…。補い合うわけではなく、医学が心理学を排除しかねない…。 オレは素人だし、まあ、どうでもいいって言えばどうでもいいんだが、現行の医療制度で両者が補い合う関係になるためには、精神科医がカウンセラーをどのように扱うのかが鍵にはなってくるんだろうね。 ▽ 独裁的であるということは、一貫性のある治療をするためにはいいけど、ともすれば、とんで もない間違いを犯すことにはなるかもしれない。 かつてのナチスドイツにように…。 おいおい、それは論理を飛躍しすぎているよ。 けれど、極端な帰納法が、極端な間違いを犯しやすいという、いい例ではある。 ▽ ああ、これも帰納法か。確かに、ちょっと推論のしすぎだったね。 逆に、極端な演繹法も、極端な間違いを犯すことがある。 ▽ 例えば? 「我思う、ゆえに我在り」という言葉は知ってる? ▽ デカルトの言葉だっけ? デカルトは17世紀の大哲学者だ。 数学者でもあったデカルトは、数学の正確さに大変惹かれて、数学的な演繹法こそが、物事を考える上での、最も正しい方法論だと思ったんだ。 でも、演繹によって正しい結論を得ようとするには、演繹を開始するための、全くもって疑う余地のない大前提が必要だよね? 大前提が間違っていたら、演繹したものも全部間違ってしまうからね。 だから、彼は、どこから演繹を始めたらいいのか、ずっと考えていたんだ。 で、世の中をすべて疑ってみた。 そうしたら、すべては疑わしいものなのではないか?と思えてしまったんだ。 でも、ある日、全てを疑ってもなお、どうしても疑いきれないものがあることに気づいた。 つまり、「全てを疑っている自分」という存在は、どう考えても疑いようがないってね。 それが、さっきゆった「我思う、ゆえに我在り」に繋がるわけだね。 ▽ で、それがどうしたの? デカルトは、ここから出発して、こんな三段論法を考えた。 実際には、もっと難しいヘリクツをこねるんだけど、すんごく簡単に言うとこんな感じだ。 「私は思うから、私は存在している。」 「私は、神について思うことができる。」 「ゆえに、私が思うことのできる神は存在する。」 ▽ はあ? さすがに、ちょっとこれは極端でしょ? デカルトは実存の問題について、少し短絡的に考えすぎてしまったんだね。 20世紀の哲学者が考えたように、実存の問題は、おそらく究極的には立証できないんだと思う。 ▽ んー。 この三段論法は、本来はこう考えるべきだろう。 「私の思うものは、すべて存在する。」 「私は神について思うことができる。」 「ゆえに、神は存在する。」 ▽ もし、「私の思うものは、すべて存在する。」っていう仮定が正しいなら、「ゆえに、神は 存在する」というのも正しいかもしれないけど…。 つまり、前提自体が間違っているってことだ。 そこから出発して、いくら演繹を重ねても、結局は、正しい答えにはならない。 演繹法の罠はそこにある。 確かに、「我思う、ゆえに我在り」は、ある一定の正しさはあるかもしれない。 けれど、「我思う、ゆえに我在り」だとしても、それが直ちに「我の思うものは、ゆえにすべて在り」にはならない。 「思う」から存在する、と直ちに結論してしまうのは、極端な帰納法だ。 ▽ 演繹法を使うにしても、最初の前提は帰納法的に考えざるを得ないってことか。 そうだ。 演繹法は一種の論理的な技術であって、最終的には帰納法的にしか世界は解釈できない。 まあ、演繹法にしろ、帰納法にしろ、極端な推論は大きな間違いを犯してしまう可能性があるってことだ。 ▽ そうだね。推論のしすぎはよくない。
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あかん、ここの書庫。読みたいのに、全然、ついていけへん(大阪弁で・笑)ひぃ〜!! いつの日か、一から読み直そう・笑。
2005/12/1(木) 午後 5:29 [ かおり ]
ちょっと、難しい話をしすぎね、コレ(笑
2005/12/1(木) 午後 5:42