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二条城をぐるりと回ると思いのほか時間がかかってしまった。足早に進む足元は泥んこ。砂を敷いてあったが足場は水溜りが多く靴の中はグチョグチョ。せっかくホテルで靴乾燥をしたのが一辺で無駄になった。一蹴して大手門を出ると、また雨が降り出した。ここから八木邸までは徒歩20分くらいだろうか。ノートPCにカメラバック、傘を持っての20分を想像するとつらそうだ。目の前にはタクシーが暇そうな長い列。悩まず乗り込んだ。「みなさん、地図を持ってあることなさいますね。でも、結局タクシーに乗られるんですよ。地図ではほんとに近くに見えるんですけどね」というようなことを運転手さんが
いっていた。親切にも、京都をブロックごとに開設した10ページくらいある案内パンフをくれた。
八木邸は、お抹茶と饅頭付で1000円。
案内係が数人いて、中で説明をしてくれた。説明の内容が史実に沿ったものであるかどうかは疑わしい。
目の前にある佇まいだけが事実なのだろう。建物を聞いてみると、当時のままだという。しかし、壁の漆喰は新しく見える。その店を聞くと、それは塗り替えてます。との答え。それじゃ、昔のままではないではなきかと思いながら、1人抹茶をすすった。隣は鶴屋というお饅頭やさん。八木家の末裔とのこと。八木家は越前朝倉の子孫と説明していた。
写真
1枚目:八木邸の門。中は撮影禁止とのこと。
1枚目:近所の壬生寺。ここで修練を積んだ。
3枚目:壬生寺を入った右手。芹沢鴨・平山梧郎ほか隊士の墓がある
河合奢三郎のだけが単独で立っていた。
4枚目:八木家末裔の創業するお店「京都鶴屋」。駅の売店にも置いてあった。
5枚目:前川邸。中に新撰組グッズの売店があった。その奥には入れない。
京都御所→二条城→壬生寺・八木邸・前川邸→ 嵐山へ向かう
幕末の文久二年(1862)に清川八郎の提案により、幕府が上洛する十四代徳川家茂の警護の為に集めた浪士隊を前身としています。翌年上洛した浪士隊は結果分裂し、京都に残った一部が京都守護職松平容保のお預かりとする形で結成されました。その後芹沢一派等の粛清を経て局長近藤勇、副長土方歳三の体制で落ち着き、主に京都の治安を守る為の警察部隊でした。
彼らを一躍有名にしたのが「池田屋事件」でした。過激派浪士が都に火をかけ、その混乱に乗じて天皇を長州に拉致するという計画を企てていました。それを察知した近藤らは、木屋町三条の池田屋を襲撃、7人を斬殺、23人を捕縛しました。彼らの活躍により、京の都が火の海にならずにすんだのです。
明治元年「鳥羽・伏見の戦い」において幕府軍に参加して戦いましたが敗北し、江戸に逃れた後、各地を転戦しましたが、同年四月近藤は板橋で斬首、土方も明治二年函館の五稜郭郊外での戦闘で戦死しました。
京都市指定有形文化財
八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていた。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られている。
建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804年)主屋は文化六年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の遺構として、また新選組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。(http://www.mibu-yagike.jp/index.htmlより勝手転載)
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画像貰います☆
2009/8/8(土) 午後 5:10
どうぞ〜〜〜!
2009/8/24(月) 午前 11:35