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建長寺は鎌倉五山の第一位。 |
たびたび
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めったに出かけることのないボクの旅日記
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鎌倉幕府が開かれたのは・・・・ ・・・いい国つくろう鎌倉幕府・・・と憶えたのは昔の話のようです。 現在では、 源頼朝が平家打倒のために挙兵した1180年説 寿永二年十月宣旨で東海道、東山道の支配権が認められた1183年説 義経追討の名目で地頭の設置権を獲得した1185年説 頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説 などがあるようです。 鎌倉時代は1333年に新田義貞に北条氏が滅ぼされるまで約150年続いた。 でも、室町時代や江戸時代の歴代将軍の名前はいえても、鎌倉歴代将軍の名前を言える人は少ないでしょうね。 いないわけはないのですが、えー、いたの〜?って感じさえします。 9代までいまして・・・ 1.源頼朝 正二位 権大納言 2.源頼家 二位 左衛門督 3.源実朝 正二位 右大臣 ここまでは、何とか中学校で習った気がします。これ以降はとんと分かりません。 突然、北条の名前が出てきそうですが・・・・ 4.藤原頼経 正二位 権大納言 5.藤原頼嗣 従三位 左近衛中将 6.宗尊親王 一品 中務卿 7.惟康親王 二品 中納言 8.久明親王 一品 式部卿 9.守邦親王 二品 なんか聞いたことあるようなないような、なんだかちんぷんかんぷんです。 しかし、鶴岡八幡宮ってなに? かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。また、「日本で最初の武家政権」とされたこともあったが、今日では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。鎌倉幕府は1333年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の約150年間を鎌倉時代と呼ぶ。 「幕府」という武家政権による政治形態は、室町幕府・江戸幕府へと継承された。幕府という政権名称について、『吾妻鏡』に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるが、当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではない。朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿と、一般からは武家と称されることが多かった。幕府は将軍家の家政機関に起源しており、段階的に公的な権力を獲得していった。当初、幕府が政治的に影響力を及ぼすことができたのは、将軍任国である関東と将軍所領のみである。 |
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鶴岡八幡宮を訪れると、大鳥居の下で1組、舞殿でもう一組、結婚式のようです。 巫女が神楽の舞を収め厳かな結婚式が進行中のようです。 鶴岡八幡宮のHPを見てみると、「舞殿挙式」というのだそうです。 その中で。「巫女の神楽舞」とだけ書かれていました。 「浦安の舞」を以前に見たことがあるので、神楽舞にもいろいろあると思うのですが、 何の舞だったのかそんなことは分かりません。 夜の「幸あかり挙式」というのもあるようです。 夜はまた幻想的な厳かな雰囲気が増すのでしょうね。 この日の感動を忘れることなく、ずーっと幸せに・・・と、記録を1枚・・・。
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気温がずいぶん下がってきて11月中旬らしい気候になってきた。 だからといって、それを願っているわけではなく寒いのはかなりつらい。 ジェケットのライナーを箪笥の奥から引き出してきて出かけた。 何が目的というわけでもなく、北へ向かえば紅葉渋滞だろうと南に向かった。 相も変わらず環8の井荻付近は、立体交差になっても渋滞は緩和されていない。 第3京浜に入るまでにずいぶん時間を費やした。 横横道を経由して朝比奈インターからひと山越えれば鎌倉の街だ。 紅葉はまだまだ早いようなのに、 鎌倉の街は、そぞろある人たちの群れで混み合っていた。 昼間の気候もよく、七五三の家族も連れ立ってのお参りのようである。
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小雨に覆われた鈍色の福井の街並みをふたりの男が眺めていた。 白髪でやや肩を丸めた感じのする壮年の紳士と浅見光彦に自分をかぶせてしまうナルシストの万年青年が、 肩を並べて電車を待っている。もっとも、壮年の紳士はいまだに汽車と口にするのだが。 新幹線駅のような高架ホーム、13時14分発 特急しらさぎ8号 名古屋行きを待っている。 かって、北の庄と呼ばれたこの街は、この男たちのさびしげな背中によく似合っていた。 先ほど来、しきりにアナウンスされている。
〜13時14分発しらさぎ名古屋行きは、信号機故障のため金沢駅を11分遅れで出発しております。
ご利用のお客様にはご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください〜
「大将が言ってましたよ。田舎ですから、こんなものしかないんですよって」 「なるほど。だいたい、いい仕事をする人ほどそうゆうふうに言うんだよ。」 むしろ、東京にいるより、この街にいる方が、昔から生まれて育った土地と感じているのかも知れない。 大阪で出あった笑顔のかわいい仲居さん。丹波で思いがけず立ち寄った篠山城。 堺のホテルから見下ろした仁徳稜。しゃべりまくる岸和田のおばちゃん。
ホテルの窓から見えた風景
中央左のビルに埋もれる緑の丘が正面が仁徳稜、その右に履中稜この周辺は百舌鳥古墳群と呼ばれ大小48基のある 紅色の空になぜか涙腺を刺激され、目頭をおおった。 そのことは誰にも言うことなく、心の奥底に締まってある。 米原で東京行きひかりに乗り換えになるが、乗り継ぎ時間は10分。 10分の乗り継ぎに、11分の遅れではどうなるのだろう。 壮年の男はしきりに、乗換えのことをを心配している。 「どうしてくれるんだ。どうしてくれるんだ。乗継時間マイナス1分? 乗れないではないか」 「まー、そいカッカしなさんな。どうにかなりますよ」 ホームに1羽のカラスが下りていた。こんなとこに1羽で来ておかしなカラスだが、 じーっと見つめていた壮年の男が、思い出すように話し出した。 よく見てみると足を怪我しているようなんだ。ぼくはカラスごときと思ったけど、ちょっとかわいそうに なって、持ってたパンを千切ってあげたんだ。次の日もそのカラスがいてね、またパンを千切ってあげた。 3日目、同じようにパンをあげたら、怪我してるカラスじゃなくて、別のカラスでね、元気な奴なんだ。 カラスって、人の顔を覚えるんだね。次の日、いつもの所にカラスはいないから、通り過ぎたんだ。 そしたら、どこからか出てきて追いかけて来るんだよね。パンよこせって。 パンをあげないと襲われそうだから、毎朝パンを買うのが義務みたいになっちまってね。 毎朝、コンビ二寄ってから散歩するようになって・・・」 「で、今もそうしているのですか?」 「何でお金払って散歩しなきゃいけないんだっておもって、今は散歩コース変えた」 なんだか、いい話なのかとおもった。鶴の恩返しならぬカラスの恩返しかと思ったら、 恩を仇で返されたってことかな。それから、サギが50羽くらい集まっていたのが、 次の日に1羽もいなくなったとか、壮年の紳士の親父さんが富山出身だったことなど とりとめのない話していた。 何かのお祭りかイベントがあるのか色とりどりのテントが張られていた。 カラスにあげたパンは、アンパンなのかメロンパンなのか、あるいはうぐいすパンなのか、 どうでもいいことを考えているうちに、10分遅れで特急しらさぎ8号がやってきた。 観光案内の「福井の人物」というところに、岡倉天心、橋本左内、岡田啓介、松平春嶽らとともに、 宇野重吉の名前が写真入で乗っていたからだろう。 あの歌がは流行ったころ、あまりに毎日毎日耳にするものだから、かえって聞きたくない曲になっていた。 それも昔のこと、今はたまになつかしのヒット歌謡などに出てくると、一緒に口ずさんでしまい、 ふと気付いて、あ〜やだやだと思うのだ。 山から霧が湧きあがっている。 3インチモニターからこぼれ出るように、堺駅前で撮ったハイビスカスの花が赤々と輝いていた。 |



