下野国に壬生藩という明治まで続いた小藩がある。
城跡に隣接して、鳥居元忠を祭る「精忠神社」があり、本殿の裏に「畳塚」がある。
以前に訪れたときは、歴史的な背景を良く知らなかった。ただ、北関東の小藩という知識しかなかった。
松尾芭蕉が「室の八島」に立ち寄り、壬生に泊る。そこが出発点だった。
その頃は、参道の両側に樹齢200年以上と思われる杉並木が隙間なく規則的に並び、昼間でも薄暗い中にひっそりとたたずんでいた。周囲には民家も少なく、近所の子供たちが境内でかくれんぼして遊び、老人がかすかな木漏れ日の当たる賽銭箱の隣で居眠りをしていた。夏だったが吹き込む風が、江戸の香りを伝運んでいた。
鳥居家中興の祖といわれる鳥居元忠。父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏以来の老臣で、元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃から側近の一人である。1572年(元亀3)、父の死により家督を相続する。家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封されたとき、下総矢作に4万石を与えられた(矢作藩)。1600年(慶長5)には秀吉死後の豊臣政権において、五大老となっていた家康は会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は800人の兵力で立て籠もる伏見城の戦い。元忠は最初から玉砕を覚悟で、最後まで戦い抜き、討ち死にした。享年62。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の床板は、『血天井』として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
元忠は幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、感状をもらうことは無かった。家康が感状を与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えた。絶対の忠臣であったと言われている。また、秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、主君以外の人間から貰う言われはないと断ったという。
武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。しかし元忠の、娘は見つからないという報告により、捜索は打ち切られる。しばらくして馬場の娘が、元忠の本妻になったという話を聞き、家康は高笑いで許した。
元忠の一つ上の兄は本翁意伯上人という。出家をして浄土宗西山深草派の総本山である京都の河原町四条にある誓願寺で修行している。大変な博学者で宗派の曼荼羅の指導者として有名になった。後に宗派の三河十二本寺の一つである 不退院の第6世の住職になっている。在任中にその当時の正親町天皇の勅により御所に勅参して曼荼羅を講演している。それを聴講した天皇は大変感動し、不退院に『上衍寺』の勅額を下賜された。
元忠が討ち死した後、家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績として子孫に関東に4万から5万石高の城を与え、子孫は後に山形藩22万石の大名に昇格している。
元忠の出生地は愛知県岡崎市矢作町渡と言う所で鳥居家発祥の地として碑が建っている。その碑を管理しているのが鳥居元忠の生まれた生家で、今では鳥居家の本家として受け継がれている。鳥居元忠の関係の子孫の多くは関東を中心に栃木、東京、神奈川、千葉、岩手、長野に散らばっている。400年以上過ぎた今でも本家を中心とした鳥居家一族の会を作って時代の検証を続けている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%85%83%E5%BF%A0より勝手抜粋)
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