多摩キリスト教会のブログ

子育てのお母さんも安心の教会、ピザ窯がある楽しい教会
  使徒の働き9131
○キリストを十字架につけた者
 パウロは木にかけられ呪われたイエスが復活した神の子であるとあかしするクリスチャンを許せなかった。神に忠実な彼は熱心に迫害の手を広げていった。パウロは主のみ声を聞き迫害の痛みをイエスが受けていたことに驚く。そのとき彼はエルサレムでイエスにむちを打った人たちと同じだと気づきます。彼は神の御子キリストにむちを打っていたのです。私たちも迫害しなくても「どうなるか見てみよう」と賛同した群衆と同じではなかったでしょうか。この自覚からキリストの名を運ぶ器が生まれるのです。
○神のみこころに従う者
 パウロの今までの信仰は崩壊した。彼は三日間の盲目と断食ですべてを絶ち主に祈り悔い改める。彼はキリストを迫害する者から宣教する者に変えられる。すると彼は直ちに「わたしの名を運ぶわたしの選びの器」として従うのです。私たちはパウロでなくても、アナニヤのようにいつでも神のみこころに従える状態にしておきたいと思う。
○築き上げられる教会
 異邦人への伝道はパウロの働きによることが大きいが、教会は築き上げられるのです。これは「建て上げる」と同じことばです。信徒一人一人がキリストのからだの各器官となって愛をもって結び合わされることです。私たちも一つの器官となって教会という「わたしの名を運ぶ選びの器」を築き上げるのです。

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御霊により救いに導く

  使徒の働き82640
〇御霊に導かれる人
 ピリポはイエス様を信じて救われることを願っている御霊の深いうめきを知っていたのでしょう。ピリポ自身もイエス様の十字架の苦しみと復活を聖霊を受けて知ったのです。それでピリポは御霊に導かれると直ちに従うのです。伝道は自分の力で行うのではなく、御霊に導かれることが必要です。それは御霊ご自身が働いてくださるからです。御霊の導きの先に伝道者は求める人に出会います。そこで福音を伝えると救いのみわざが起るのです。私たちも何かをするよう御霊に導かれたら、それは伝道の働きです。こんなことがと思わず、ちゅうちょせず御霊の導きに前進しましょう。
〇救いに導かれる人
 この宦官は女王の廷臣、去勢された者、そして熱心な信仰者です。しかし宦官は集会に加わることはできません(申命記231)。彼は神殿の外でしか礼拝できません。律法には祭司であっても身に欠陥のある者は祭壇に近づけないのです。ところが、イザヤ書56章には宦官が「私は枯れ木だ」と言うな。「わたしの契約を堅く保つ宦官には・・・わたしの祈りの家で楽しませ、いけにえは受け入れる」とあるのです。これが彼の希望でした。彼はイザヤ書53章で卑しめられる主に目が留まり「この方はだれですか」とピリポに聞きます。人は自分の姿を聖書に見るとき心が開かれます。それで宦官はピリポから福音を聞くと直ちに洗礼を受けたのです。私たちも御霊に導かれ福音を伝えるのです。

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   使徒の働き8125
○神の前に正しくない心
 シモンは魔術でサマリヤの人たちを驚かして自分は偉大な者だと話していた。彼はピリポのしるしを見て、福音を信じた。彼はいつもピリポのしるしと不思議を見て驚いていた。さらに使徒たちが人々に手を置くと聖霊の下るのを見た。そこで彼は神の賜物を買おうとした。彼は洗礼を受けたが古い性質と罪の習慣に縛られていて生活が全く変わってない人です。でも散らされて来た人たちは何もないような中でも、心に持っているみことばを宣べながら、巡り歩いていた。人は心の中にあるものが生活に出るのです。あなたの関心はどこにありますか。それが古い性質であるなら、使徒たちがシモンに言ったことばを聞きましょう。「この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。」
○神の前に正しい心
 神の救いは努力して功績を積むことやお金で買うことはできません。しかしこの世では働いて努力してお金を得て物を買います。物には価値があるからです。神の救いに価値がないのではありません。この世のすべての富を積んでも買うことができないくらい、高価なものだからです。神の救いはイエス・キリストの代価によってしか払うことができないのです。神のみ前に正しい心とは単純です。毎日こつこつと聖書を読んで、ディボーションをして、集会を重んじて懸命に努力する、普段の生活であかしを立てていく。その信仰生活が正しい心の現れなのです。その中で神は賜物を与えてくださるのです。

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イエスを仰ぎ見る信仰

  使徒の働き75460
○それは聖霊に満たされることです
 ステパノの裁判はイスラエル議会で行われた。そこで彼は「イエスが神の右に立っているのが見えます」と言う。しかし議員たちには天井しか見えない。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています」(Ⅰヨハネ413,14とあるように彼は「イエスのあかし」を見えると言ったのです。それをさせたのが聖霊の満たしです。聖霊は使徒たちが迫害を受けたとき降りました(431)。彼も偽証で訴えられたとき満たしを受けました。イエスさまのために生きるなら苦しみが襲います。しかしその時に祈りましょう。主は聖霊で満たします。そして困難の中の私たちはイエスを仰ぎ見るのです。
○それはみことばを生きることです
 ステパノはこの裁判で死を悟っているのでしょう。彼はイエスが神の右に立っているのが見えると、それはイエスさまが迎えてくださる姿勢だからです。彼はイエスの証をひるむことなく繰り返し語りました。そして石打ちにされます。そのとき彼は「わが霊を御手にゆだねます」、また「この罪を彼らに負わせないでください」と祈ります。このことばはイエスさまの十字架のことばと重なります。彼は主のことばを聞いていました。そして死を前にしても彼は主のことばを生きたのです。彼は殉教者となりました。私たちは殉教しなくても主のことばを命がけで生きる証人になるのです。
 

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心と耳に割礼を受けよ

  使徒の働き7153
○それは聖なる所に立つことです
ユダヤの祭司たち指導者は神殿を宗教の中心に置き権威と富を手に入れた。彼らはモーセがいない間に金の子牛を作って楽しんだように、自分で作った神殿を楽しんでいた。しかしステパノの宣教が神殿の慣習を変えてしまうと恐れた彼らは「神と聖なる所を汚すことを語る」と訴える。その罪は死罪です。ステパノは、アブラハムはメソポヤミアヤで、モーセは荒野で神殿が建つ前に神の栄光が現れたではないか、だから聖なる所は神のみ前であると答えます。ダビデがモリヤの山に神殿を建てることを決めたのもそこで神にひれ伏したからです。ソロモンの神殿は罪ある者を神にとりなす場所でした。しかし三日でよみがえったイエスさまが神殿となられたのです。教会の一人ひとりも聖霊によってイエスを宿す神殿です。私たちは自分で作ったものを楽しんではいけません。イエスさまの前に立って神のみ前にひれ伏すのです。そこに神の栄光が現れるのです。
○それはみことばに従うことです
ステパノを訴えるもう一つの理由はモーセと律法に逆らうことばを語ることでした。彼らはエジプトで金の子牛を造ってモーセに逆らったように信仰を見えるものに置き換えたのです。だからステパノの説教で習慣が変わると恐れたのです。彼らはモーセもヨセフも多くの預言者のことばも信じられません。それは神のことばを聞いても心で受け止めないからです。アブラハムもモーセも御声を聞くとすべてを捨てて出て行きました。そのように私たちも御声を聞いて自分を捨てて従うとき心が開かれ栄光を受けるのです。

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