ここから本文です
ブログ始めました!

東堂のこと(6)

  元旦に東堂が遷化してから、今日まで、地元で葬儀が続きました。
この地域には、三ケ寺あるのですが、町内となると、もっと多くの寺があります。
元々、寒い時期は葬儀が重なるのですが、今年は、三日に一度の割合で葬儀があるのですから大変です。

 志摩地方では、「坊さんが死ぬと、その年は葬式が多い。和尚さんが連れて行くんや」と言われているらしく、その言葉を聞いて、「大切な家族を亡くして、悲しんでいる人達に申し訳ない」とショックでした。
しかし、友人が「皆が、和尚さんについていくのよ」と言ってくれて、少しホッとしました。確かに、亡くなられた方の中には、長年床に伏して苦しんでおられた方も多いので、「もう、そろそろ楽になりたい」と思ってついていったのかもしれません。

物事は、とらえようや言い方で、印象が変わるものですね。

改めて、亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。



この記事に

季節の便り……梅の春

イメージ 1

夕方、鐘を突きにいったら、目の前に、薄紅の垂れ梅が満開❕
立春の日の 異常な暖かさに驚き、翌々日の 寒の戻りに縮み上がり、繰り返される寒暖の差に、体がついていかないよと話しているうちにも 春は確実に近づいているようです。

イメージ 2



この記事に

東堂のこと(5)

  東堂が亡くなってから、一ヶ月が過ぎました。
同じ屋根の下に住んでいた人が、この世から、突然消えてしまったという感覚と向き合う時間でもありました。

買い物に行き、手を伸ばした食材が三人分だと気づき、あわてて二人前を探したり、夜中に洗い物をしている時、東堂が部屋から出てくるような錯覚をしたり……
 食事の支度をしている時、冷凍室を見ると、年末にお歳暮として、送られたてきたものがあります。そのほとんどが、東堂の知人や教え子から贈られたもので、正月にいただこうと冷凍室にしまったまま、葬儀のどさくさで、食べる機会を逃したもの。
もちろん、冷凍されていたものですから、今でも美味しくいただけます。しかし、贈り主が、本当に食べてもらいたかった東堂は、それを口にすることなく逝ってしまったわけで、私たちだけで頂くのが、申し訳ないという気持ちを抱きつづけた一ヶ月でもありました。お父さんに食べてもらいたかったなぁ……

 そうは言いつつも、残された者は、やるべきことも山積み。何かに追われている気分の毎日でもあります。
本葬は、東堂の誕生日でもある3月30日と決まっていますが、それに向けての準備も、始動しています。和尚さんたちによる会議も着々と進み、檀家の皆さんによる準備委員会も、数日後には立ち上げられます。
寂しいと言って、落ち込んではいられません。
少しずつではありますが、東堂のいない新たな日常ができあがりつつあります。 




この記事に

東堂のこと(4)

東堂のライフワークは、曹洞宗の開祖である道元禅師についての研究でした。
大学時代から続けている研究ですから、80年以上の歳月を注いできたわけです。

実は、昨年、東堂の母校である駒澤大学から、長年の研究の成果を、特集して出したいというお話があり、原稿の校正も済んでいました。突然の訃報に、大学関係者の方々も驚かれていましたが、追悼という形で出していただくことになりそうです。

田舎の老僧の論文が、何故、ここまで注目されるのかと言えば、東堂は、道元研究の第一人者なのです。しかし、このように認められるまでには、紆余曲折がありました。。

東堂は、大学時代、二人の恩師に出会いました。一人は、禅の普及に努められた宗教家の 澤木興道老師。再得度の時、号のない東堂に「俺の名前をやるよ」と言われ、興と道の二文字がつき、興国祥道という名前をいただきました。
もう一人は、駒澤大学の総長で、宗教研究家だった 衛藤即応博士。研究への道標をつけていただいた方です。

日本を代表する二人の宗教家に導かれ、研究の道に入りました。しかし、戦争で、研究者として大学に残る道が絶たれてしまいます。大連に住んでいた実父が亡くなり、養母と一緒に日本へ引き上げました。引き上げの時、苦労して書き上げた論文を体に巻いてきたそうです。しかし、せっかく書き上げた論文も、出典となった資料を全て失ったため、博士論文としては提出できませんでした。

しかし、研究者としての資質を認められていたので、大学の研究室に来るように連絡が来ました。研究室に戻り、思う存分研究がしたかったそうです。ところが、踏み切れない家庭の事情がありました。養母と親戚の叔母をかかえ生活していかなければなりません。引き揚げ先に二人を残して、自分一人だけ東京に行くことはできない。しかし……
 
迷った挙げ句、「これに乗れば、東京へ行けるけれど……」と、駅のホームに立ち尽くし、東京行きの夜行列車を見送ったと話してくれたことがありました。苦悩の末に、研究室への道を断念したのです。しかし、その時、「勉強は、研究室でなくてもできる。俺は、野にいて研究を続けようと決心した」とのこと。それを語る東堂は、過ぎ去りし日を懐かしむ眼差しで、遠くを見つめていました。

そうして、僧侶と教員の二足のわらじをはきながら、研究を続ける日々が始まりました。教師の安月給は、ほとんど、東堂の高い本代に消えていったと、義母が笑いながら話していました。研究は精力的に続けられ、恩師の計らいだったのでしょう、「宗学会」という学会で発表をしてゆきます。けれど、それは苦難の道でした。肩書きのない田舎の僧侶が、従来の定説に反対を唱える論文を発表したのです。すぐに受け入れられるものではありませんでした。

しかし、あらゆる資料を読み込んで、発表を続けた東堂の主張がいつしか認められてゆきます。道元研究の流れを変えたのです。平成5年に、曹洞宗特別奨励賞を受けた時も、「今さら、こんな田舎和尚にくれなくてもいい」と固辞したそうですが、「あなたが、今受けてくれないと、後輩たちが遠慮してもらえないから受け取ってくれ」と、頼まれたと笑っていました。

また、本山の永平寺で講義をしてほしいと頼まれ出掛けたこともあります。この時も、「自分の説は、本山が採用してきたものと違うんだけどなぁ」と笑っていましたが、親友の計らいで実現したことなので、顔をたてなければと、出掛けていきました。

東堂の幸せの一つは、友人たちに恵まれていたことです。80才過ぎまで、夫婦同伴の同窓会が開かれておりました。しかし、その大切な友人たちを、一人また一人と見送り、自分一人が生き残ったことが、寂しかったようです。親友たちは亡くなったけれど、そのお弟子さん(息子さん)たちとの交流は続いていました。今回、東堂の訃報を知った そのお弟子さん達が、全国から駆けつけてくださいました。本葬にも出たいから宿を取ってほしいと頼まれました。親子二代のお付き合い、有難いものです。

話を戻します。「宗学会」での発表は、90歳を過ぎてからも続けられました。夜の深夜高速バスで、伊勢を出発し、早朝6時半頃に東京に着くと、終着点のホテルで軽く朝食をとり、すぐ恩師の墓参りに行き、その足で大学に入り発表をするということを、年に一度やっていました。深夜の高速バスに揺られるなんて、私は一度だけ経験しましたが、狭い座席で窮屈な思いをするし、灯りや音が気になるしで、とても安眠できません。でも、新幹線で乗り換えながらいくよりは、こちらの方が楽だからと、東堂はいつも、深夜バスを利用していました。体力的にも、タフな人でした。

昨年の秋、寺の奥さんたちとの研修会に出掛けた折、友人が、「うちの息子が、今、駒沢大学にいっているけれど、一度、中世古老師に会わせてもらえないかと言ってきた。自分も一生に一度は、高僧と会っておきたいけれど、今のところ思い付くのは中世古老師だから、何かツテはないかしら?ただし、面と向かってお目にかかるのは、恐れ多いし、上手く話ができそうもないから、柱の陰から覗くだけでもいい、と言ってるのよ」と言い出し、大笑いになりました。「柱の陰から覗かなくても、月に一度、講話をしているから、覗きにくればいいよ」と話したばかりなのに、その東堂はもういません。

東堂が亡くなり、改めてその存在の大きさを感じるようになりました。生きている時
は、誰にも迷惑をかけないようにと、身の回りの整理整頓をきちんとし、あとは、研究三昧の生活でした。残された時間が少ないことを、誰よりも承知していて、信じられない速度で、本を読み、文を書いていました。一つ屋根の下で暮らしたからわかるのですが、やはり稀有な存在だったと思います。

闘病したのは、わずか10日あまりでしたから、やつれることもなく、その顔は眠っているように穏やかな表情でした。入棺の時、花を入れていた3歳のひ孫が、大きいお祖父ちゃんに「ありがとう」と言ったので、皆ビックリしました。でも、その言葉が、すんなりとその場にいた者の心に、響きました。私からの最後の言葉も、やはり、感謝の言葉になりそうです。

103年間の長い旅、本当にお疲れさまでした。そして、いろいろな心遣い、ありがとうございました。安らかにお眠りください。


この記事に

東堂のこと(3)

今から20年ほど前、東堂が体調を崩して入院した。二日目には元気になり、ベッドの上で、論文の手直しをしたいという。ついては、資料も確認したいから、持ってきてほしいとのこと。メモに、本の題名が書いてあったが、それを書庫から探してほしいという。その指示は、次のようなものだった。「書庫に入って右側の本棚の 下から三段目の棚の 右から七冊目の○○という本」

半信半疑で書庫に入ると、指示された所に指示された本があった。分類して置いてあるのは知っていたが、それを完璧に記憶しているとまでは思っていなかった。この時改めて、その記憶力に驚愕した。

また、「これを読んでほしい」と言って、よく古文書などが持ち込まれる。それらの中に、絵が混じっていた。何を表している絵か分からず、しまいこんであった。ところが10年くらい後に、別の資料が持ち込まれた。その時、アッと閃くものがあり、その絵の表している内容がわかった。そこで、その確認のために、県立図書館へ別の資料を探しに行った。

またある時は、郷土のことで調べものをするために、東京の国立図書館だったか国立博物館だったかに、一人で足を運んだこともある。一般人は入れてもらえないので、役場からの紹介状をもらって行ったという記憶がある。その時案内してくれた学芸員の方
が、後で手紙を下さった。「90歳近い方が、わざわざここまで調べものに来られるなんて、本当に驚きました。私も、まもなく定年退職を迎えますが、あなたを見習って、頑張って生きたいです」というような内容だった。

たまにしか行かないのに、東京や京都の道にも詳しく、タクシーの運転手に、道を指示することもあった。方向音痴の私には信じられない記憶力だった。

そんな東堂が いなくなってしまった……亡くなったというよりは、消えてしまったという感覚だ。あの素晴らしい脳ミソも、消えてしまった。その喪失感は、想像以上に大きく膨らんでいく。

恩師のご息女が、東京でご健在なので、訃報をお知らせした。その時の第一声が忘れられない。「まぁ、もったいない。あんな方が亡くなってしまうなんて、何てもったいないことでしょう」その時、はっきりと、東堂の死を表現するのに、「もったいない!」という言葉が、一番適切なのだと感じた。

次回は、そんな東堂の ライフワークについて書きとめておきたい。









この記事に

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事