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倪瓚(雲林) (1301-1374)
これは南宗画の開祖として後世から尊崇された、いわゆる元末四大家 (黄公望・呉鎮・倪瓚・王蒙) の一人である。
しかし残念ながら日本には殆ど伝来していない。左記の山水画は偽画である。
(おかしなもので、江戸期では、この山水画が真物と伝来していたふしがみられる。当時として田舎では真贋を見極めること難しく、富豪家、唐絵を求めること流行したらしい。)
彼らの画跡は中国本土や台湾でみられるが、傑作も少なくない。なかでも黄公望の「富春山居図巻」(台北)、倪瓚の「漁荘秋霽図」(上海)、王蒙の「青卞隠居図」(上海)、「谷口春耕図」(台北) が、それぞれ第一級に位する名品である。
江南系の感興本位の写意は、中国文化に強いあこがれを抱いていた、江戸時代の文人たちならば十分理解もし、また、歓迎もしたであろうが、写意は写意でも人間の情感を尊重する感興本位の写意は、中世の禅宗趣味には似つかわしいものではなかっただろう。
四大家の輩出した元末は、わが南北朝に当たるわけであるが、南北朝はもちろん室町時代になっても、四大家流の南宗文人画に関心をもった日本人は、おそらく一人もいなかったにちがいない。
雪舟も入明して南宗画の本場である江蘇地方を旅行したはずであるが、四大家系の南宗画についてはひと言もふれておらず、まったく縁がなかったようである。
雪舟が尊重したのは、馬遠、夏珪をはじめ南宋の画家であったが、元画では高克恭が、雪舟の興味をひいた唯一の作家であったらしい。
江戸時代にはいって、いわゆる南画が流行しはじめると、その開祖としての四大家が尊崇されたことはいうまでもない。ただ、当時の鎖国という環境条件のもとでは、まともな中国画が輸入されるはずもなく、かりに鎖国による制約がなかったとしても、明清時代には四大家はすでに神格化されていたわけであるから、その作品の入手は望んでもなかなか困難であっただろう。
わが南画の大成者と仰がれる池大雅は、黄公望の「天池石壁図」をみて悟るところがあったという有名な話があり、それに当たる図というものも現存しているが、明代庸手の作にすぎない。
明治以後、中国画が多く将来され、そのなかには宋元画もあり、また四大家をはじめ江南系の元画も見出せるが、四大家の作品に関するかぎり、手遅れであったというほかない状況である。
【倪瓚(げいさん)】
中国、元末・明初の文人画家。元末四大家の一人。
初名は珽、のち瓚と改名。字は元鎮。号は雲林。
江蘇省無錫の梅里祇陀村の代々の富家に生まれたが、幼時に父を失い長兄の
倪昭奎に養育された。
倪昭奎は新道教の全真教に帰依し元朝より真人号を特賜された人物である。倪昭奎の歿後、倪瓚は28歳で家庭を相続し勤倹につとめたという。
邸内に清悶閣を築き数千巻の書籍や多くの古書画、古器物を秘玩し隠逸的生活を送ったが、52歳ころ、突然家財を整理し近親者に分け出郷したと伝わっている。
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