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日本文学・古美術・郷土史・・・ブログ「銀漢」(天の川)の続きです。

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光親
                           「光親」短冊。
イメージ 1この作者、詳細不明。
小屏風に江戸期の歌人・香川景樹、加藤千蔭、内藤中心、熊谷直好、そのほか武将等…13葉の中の一葉。
 
【参考】
①<杉原光親>    府中市出口町「歴史の小径」より
「八ツ尾城跡」
建仁2年(1202)源頼朝並びに頼家に仕えた杉原伯耆守光平が頼家のとき備後守護職として鎌倉より来り八ツ尾城を築いたと芦品郡志や沼隈郡誌、更にはそれ以前の著書「西備名区」にもしるしてある。
「西備名区」は杉原光平から光親まで11代の城主の名をあげている。光親のとき天文の初め (天文元年は1532年)
丹州に移ると芦品郡誌には書かれているが、丹波の郷土史家に照会したが当時の丹波に入国した形跡文献はないという。また一説には尾張に移住したことになっており、これらについて更に調査研究の要がある。
郡誌は山名時氏が康安2年(1362)入城し杉原詮光がこれを
城内に迎へ、山名の別館を設け山名の将が城代となったと
伝える。城は杉原に返したが児とあれば山名が八ツ尾城を本拠にして戦った。山名が後、神辺城に移り杉原理興に滅ぼされるまで備後は実質的に山名の支配下にあった。
広島県史によると「椙原(すぎはら)泰綱請文」や「椙原光房奉書」「椙原親光注進状」等が尾道の浄土寺文書として保存されており、これらは八ツ尾城主に係る名前である。
なお杉原光平の子孫は御調郡木梨城主、山手銀山城主、神辺城主、土生村渕上城主となっており南北朝時代から足利
戦国時代にかけて目ざましい活躍ぶりが記されている。
杉原光親は、足利八代将軍義政の時代であることが判明した。文安年間(1444〜1448)御番帳の5番に杉原彦太郎の名が見え、光親と認定される。すなわち京都にて足利幕府の警固の任に当たっており幕臣であったことが判る。
豊臣秀吉の妻ねね(又はねい)は杉原氏の出であり、浅野長勝の養女となり、秀吉と結ばれた。ねねの父は杉原道松(定利)、母は朝日、祖父は杉原家利である。
「家利の祖父の世より尾張の国の住人とはなりてけり」と
新井白石の「藩翰譜」は述べている。
この家利の祖父なる人物は処処調べたが、どこにも出てこない。が、八ツ尾城主11代の杉原光親が年代的にも年齢的にも最も当てはまる。光親が京都より尾張に移住したと見ればつじつまが合ってくる。
②<揖斐光親>
美濃守護・土岐氏一族。子がなかった揖斐氏当主基信の養子として美濃・揖斐城主となる。後奈良天皇が資金不足にて10年間即位の儀式を行えずいたところ、1526
年献金を行いこれを実施させている。
1547年斉藤道三が守護土岐頼芸を大桑城に攻めて追放した際、頼芸に与した光親も、揖斐城をせめられて落城。城を脱出してその後は流浪するが、やがて復帰して斉藤道三の子義龍に従った。
 
③<葉室(藤原)光親>書風からみて時代が合わないと思われる
  (1176-1221)
平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原光親とも言う。権中納言・藤原光雄の次男。官位は正二位・権中納言。
寿永2年(1183)六位蔵人となり、まもなく叙爵され、のち豊前守・兵部権大輔・左衛門権佐・防鴨河使などを歴任する。正治2年(1200)右少弁に任ぜられると、翌建仁元年(1201)権左少弁に昇進し五位蔵人を兼ね、元久元年(1204)にはさらに左衛門権佐を兼任して三事兼帯となった。
建永元年(1206)蔵人頭・右大弁を経て、承元2年(1208)従三位・参議に叙任され公卿に列した。その後、建暦元年(1211)正三位・権中納言に昇進するが、建保2年(1214)権中納言を辞任する。
建保4年(1216)正月に権中納言に還任されるが、同年6月再び辞任し、翌、建保5年(1217)正二位に昇叙された。またこの間議政官として、右兵衛督・検非違使別当・按察使を兼任した。
一方で光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。
 
その他にも「光親」数々見られるが…省略する
 

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