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日本文学・古美術・郷土史・・・ブログ「銀漢」(天の川)の続きです。

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頼山陽の叔父…頼杏坪

頼 杏坪イメージ 2   イメージ 1(1756-1834)
 
江戸時代後期の儒学者で、頼山陽の叔父である。
名は惟柔、字は千祺・季立、通称は万四郎、号は杏坪・春草。
安芸国(広島県)竹原で紺屋を営む惟清の子として生まれ、長兄・春水、次兄・春風と同様に、大坂に遊学して学問を志した。天明5年(1785)には、広島藩の儒者に登用され、しばしば江戸に在勤した。また、藩の編纂事業に関わり、『芸備孝義伝』や『芸藩通志』を編集した。
文化8年(1811)以後は備後北部地方の郡代官、三次町奉行として、学問の政治的実践を試みている。天保5年(1834)歿。広島の安養院(現在の多聞院)に葬られた。詩文や和歌などの文芸でも知られている。
 
頼 春風
(1753-1825)イメージ 2
 
イメージ 1左記の書は、文化丙子蒲月の年、すなわち文化13年5月に書かれたと思われる。
 
文化13年2月、兄春水
(頼山陽の父) が亡くなって三ヵ月後にあたる。
春風は、安芸国賀茂郡竹原(現広島県竹原市) の人。
頼亨翁の次子。頼春水、
頼春風、頼杏坪、三兄弟の一人である。
名は惟彊通称は松三郎、字は千齢、春風は号である。
14歳の時、兄春水に従って大坂に至り、父の命により医術を古林見宜に学ぶ。
兄弟3人大坂にあり、当時の文人達は、彼らの詩風を、春水の「方」、杏坪の「三角」春風のそれは「円」であると評したが、彼は詩風のみならず、人格・家族関係・処世いずれも円満の人であった。
父亨翁が病んだので、竹原に帰り、父に仕え、家塾「竹原書院」を開き、医を業として宗家を守った。のち、浅野藩(広島藩)より藩医に推された。
菅茶山年譜によって、茶山、春風の関係を見ると、天明8年(1788)芸州に遊んだ茶山が、帰途、はじめて竹原に春風を訪れている。また、文化2年(1805)にも、竹原頼家を往訪して、5日間滞在、頼家の人々と詩会を催して楽しんでいる。
春風は、郷里において悠々たる生活を送った後、文政8年(1825)9月11日、竹原春風館に没した。享年73歳。
 

内藤中心

内藤中心(なかご)イメージ 1
  
(1740-1817)
 
内藤中心は、土佐藩士として高知に生まれた。
土佐藩に仕えていたが、天明年間の末(1780年代後半)
脱藩し、小田郡烏頭村(現在の美星町烏頭) に移り住んだ。
この地で30年間、歌学に励むかたわら、後進の指導に努め、門人の数は千人を超えたという。
歌風は万葉調を重んじ、これを普及した功績は大きく、
近世吉備歌壇史上特筆されるものがある。
文化14年(1817)の当地で没し、その墓所の碑文は
昌谷精渓よるものである。
生前桜と古刀を愛し、涯号を桜の舎といい、歌集『桜の屋集』は後に門人が編んだものである。
生涯の詠歌は実に4万を超えた。
 
 
 

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