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玉田黙翁 (1697-1785)
<加古川市資料> (「玉田家の歴史」より引用)
玉田黙翁は、元禄10年(1697)に現在の加古川市志方町野尻に生まれ、天明5年(1785)に没するまで、その大半を故郷で過ごした医者であり、文学者です。
黙翁は名前を信成、字を子靖、通称を金次郎、後に喜内といい、虎渓庵、適山、黙翁などと号しました。
祖父の修斎(正信)、父親の柔庵(義道)、ともに三代とも医者でした。
黙翁には兄の信近がいたらしいのですが、若くして亡くなったために信成(黙翁)が玉田家を継いだということです。
黙翁の事跡についてあまり詳しくはわかりませんが、父柔庵が明石の三宅尚斎(1662-1741)に学んだこともあり、黙翁も尚斎について儒学を学びました。
因みに尚斎は、江戸時代の著名な儒学者である山崎闇斎の門下で、その三傑の一人といわれた人物です。
やがて黙翁は、地元野尻で虎渓精舎という私塾を開きます。ここは「虎渓精舎記」という記録に『玉田氏の延光翁、昔年築為読書之所』とあり、祖父の書斎を転用したものと思われます。
現在も野尻古墳群の西側の山すそを分け入ったところにその跡が残っています。当然のことながら、虎渓というのは虎ヶ谷のことです。この塾では姫路藩の合田麗澤、竜野藩の股野玉川が想像されます。
黙翁はほとんど志方の地を離れることはなかったのですが、74歳のときとその4年後の2回、小田原城主の招きで江戸に出て講義を行いましたが、どちらも1年で戻りました。
黙翁の著作は、現在もわずかに残っていますが、身近に接することができないのは残念です。「増訂印南郡誌」には祖父、父、黙翁三代の事跡が簡単に記されています。加古川市資料には、学問の名家としてその誉れを集めた玉田家ですが、黙翁歿後、その孫の代で絶えてしまいました。
<生野町(現・兵庫県朝来市生野町) 西福寺保管資料>
徳川幕府生野代官に新田開発の技術をみこまれ、加古川市志方町野尻から兵庫県生野町に移り住むように命ぜられました。そして、現在の神埼町越知谷を開墾いたしました。
江戸時代最後の当主は玉田源衛門作蔵といい、源衛門は幕府に届ける管称で
作蔵が通称です。徳川一橋家の飛地領の現・加古川市志方町で大庄屋を務めており、苗字帯刀も許されていた。
明治政府の政策で、全国民が苗字をつけるようになりましたが、多くの人々がその土地の城主や、庄屋の苗字をそのままつけました。同じ地方に同じ苗字が多いのはそのためです。
越知谷の作畑新田地区の住民の苗字も殆どが、玉田姓を付けたそうです。
松樹寺というお寺があるのですが、墓石の殆どが玉田家となっている。
玉田家の石碑、過去帳等の資料が生野町西福寺に残されています。
※玉田家は、姫路の飾西郡置塩庄玉田村(現・夢前町玉田)を興した村上源氏赤松氏一族の子孫です。修斎の時に藩主から虎ヶ谷(野尻)地区開墾(現・加古川市志方町野尻)の命が下って移り住みました。
その後、生野代官の命により幕府の天領である生野(現・朝来郡生野町)に移り住み、越知谷新田の開墾に従事した。
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2014年03月22日
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