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日本文学・古美術・郷土史・・・ブログ「銀漢」(天の川)の続きです。

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栗林一石路

栗林一石路
 
明治27年10月14日、長野県小県郡青木村で生まれる。
昭和36年5月25日死去。
 
一石路は俳句の人であり、ジャーナリストでもあった。
明治・大正・昭和の激動の時代を生き、内なる叫びとして俳句を詠い、その結果、治安維持法違反で検挙され二年以上獄中にあり、外に向けてはジャーナリストとしてギリギリのたたかいをしてきた。もちろん戦争にむかう時代の厳しい情報統制のもとではかぎりなく制限された。
敗戦直後、一石路はけっしてウソは書かないと決意して新聞「民報」を創刊し、自らの戦争責任を自己批判して再出発している。    (桜田義文・著)
 
イメージ 1
    
      【昭和22年10月9日付、栗林農夫(一石路)書簡】
 
 シャツ雑草にぶっかけておく
 
一石路の代表句であるこの句は、大正15年夏、労働者が汗にまみれて働く情景を詠んでおり、やがてプロレタリア俳句運動の旗手として歩む一石路の出発点として位置づけられている。
この句碑は、長野県青木村の国宝大法寺の入口にある。
1991年5月、一石路の歿後30年を記念し、全国の俳人や青木村民などの募金で建立された。
 
【妻たけじとの出会い】(栗林一石路を語る会編著「私は何をしたか」) より抜粋
 
一石路の妻となる斉藤たけじは、明治30年、西塩田村の十人(現、上田市)という集落に生まれた。前橋女子師範を卒業、小学校本科正教員免許を取得し、群馬県の小学校で教壇に立ったあと、大正5年10月には給与15円で青木小学校に赴任している。したがって一石路が陸軍を除隊したときには、たけじは19歳で青木小学校の新任教師として、すでに教壇に立っていたことになる。
たけじが住んでいた十人は、温泉地として知られている別所まで約4キロ、青木村へ通うにはどの道を通っても峠を越さなければならない。一番近い道は殿戸峠を越す道で、十人から別所温泉まで一時間、別所から青木村殿戸まで一時間、そこから小学校まで30分かかる。
この峠道は今でも車は通れず、昼でも暗い淋しい道だ。20歳の娘がこんな道を通ったというのが信じられない。
軍隊から帰った一石路は、悶々とした生活を送りながら、五反の田と七反の畑と山林を所有する栗林家の跡取りとして百姓をし、村の青年会の活動に参加した。
すこし後になるが大正10年「青木時報」の納税等級一覧によると、栗林家は村内では「中の上」で、決して貧農ではない。地道な生活をしてゆくには十分な財産があったといえる。
家にしばられて生きるのか、自分をつらぬくのか、ふかい悩みをかかえてただひたすら黒い土をたがやす一石路だった。
  
土堀りかえしイメージ 2掘りかえしなにもおもわず
 
そんな一石路に一筋の光がさしこんだのは、大正7年のことだ。そのころ一石路は青木学校同窓会の幹事をし、同窓会が毎年発行し村の文化の登竜門といわれた同窓会報(明治38年〜昭和3年、通算24号刊)の編集を担当しており、大正7年と8年は編集長だった。
その事務局が小学校にあり、職員室でお茶をいれてくれる若くて教養あふれる教師、斉藤たけじに出会った。
 
まいにち通る先生に村の山は枯れ
 
『2月1日、学校へ同窓会の幹事会にゆく、学校の玄関で斉藤が帰りかけたのをもどってきて、「『カラマゾフの兄弟』をまだ借りていてもようござんすか」と聞いた、すぐそばの職員室には校長や職員がいるのにとおもうと冷汗がたれるようであった。彼女は大胆にもそれをあえてして帰っていった。』 
                              (大正8年「一石路日記」)
 
やがてこの年の3月、たけじに神科小学校 (上田市)への転勤辞令が出る。
このとき、一石路は「ハイネ詩集」(新潮社・大正8年3月四版)を贈っている。
 
『3月24日、T(たけじ)へ手紙を書く。そしてハイネ詩集を贈る。愛を告白した。』   (前出「一石路日記」)
 
詩集には、一石路の気持ちをハイネにこめたのか、赤線が引かれた詩があり、裏表紙には、「T・Sに贈る、T・Kより」と書かれている。
 
『3月26日、枕元へT(たけじ)からの手紙と一輪挿がおかれているのでそうっとみると、私はあなたを愛しているが、先にすでに愛を注いでいるひとがいるのでだめだという意味のことがあった。(略)懐かしいTよ、その恋人との生活に幸あれ。とうとうTとの交渉も切れてしまった。私は淋しい。』  (前出「一石路日記」)
 
この失恋が原因かどうかわからないが、一石路はこの年の「層雲」四月号から大正十年の三月号までの二年間、俳句の投稿はない。
 
『12月31日、顧みれば俺のこの一年の生活は、ほとんど失敗の一年であった。物質に欠乏し、請いに破れ、俳句に収穫なく、まったくいけない年であった。日記も約二ヶ月は全く空白であるのが恥ずかしい。しかし過去は悔いてもはじまらない。さらば大正8年よ。去れ、永久に去れ。』 
                                 (「一石路日記」)
 
苦悶のなかで一石路は大正9年を迎えた。村の先輩たちが縁談をもちこんできたり、Yという女性に想いをせたりするが、いずれも縁がなく、酒におぼれる泥のような生活をおくっていた。
 
『9月10日、斉藤さんから手紙が久しぶりにできた。(略)あ〜あ〜あのひとも失恋したのだ。なんということだ、かくて俺も彼女も倒れるとは、今の社会も、神もひどい、夜長い手紙を書いて、俺のことも知らせ、ちょっとなぐさめもした。』 (大正9年「一石路日記」
 
傷心の二人に手紙のやりとりが復活し、11月23日、二人は人目を避けるようにして、上山田温泉で密会する。たけじの妹の相談ということで会った二人だったが、帰りの汽車の中では二人の気持ちは決まっていたようで、12月の17日にはこうある。
 
『たけじさんは俺と結婚することをきめた。たけじさんも嬉しそう。私もこんなに嬉しいことはない。夜いえに帰ってすっかり事情を打ち明け、両親の了解と賛同をえた。ああ真実の結婚をすることができるのだ。』  
                               (前出「一石路日記」)
 
こうして二人は多くの障害をのりこえて、大正10年1月26日に結婚した。
 
 

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