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日本文学・古美術・郷土史・・・ブログ「銀漢」(天の川)の続きです。

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明治時代の裁判記録

明治時代の裁判宣告記録
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              【広島裁判所管内尾道区裁判所宣告記録(明治13年11月24日)】
                            (宣告に大審院の言葉が・・・)
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           【申渡状 広島裁判所管内尾道区裁判所(明治13年7月8日)】
<大審院>
大審院は、大日本帝国憲法下の日本における最高裁判所である。
終審として、上告及び控訴院などがした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものと規定された。
明治8年、司法省裁判所に代わって東京に設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院とが明確に区分された。
明治23年、裁判所構成法が制定され、大審院を頂点に以下、控訴院・地方裁判所・区裁判所が設置された。昭和22年に、裁判所構成法の廃止に伴い、廃止された。
大審院には若干の民事部・刑事部が置かれ、各部は5人の判事の合議体によって構成され、裁判が行われた。大審院が従前の大審院の法令解釈を変更しようとする場合は、事件の性質に従い、民事の総部もしくは刑事の総部を連合し、または民事および刑事の総部を連合して合議体を作り、裁判を行った。この合議体のことを聨合部といい、各々その連合した部の名称を取り、民事連合部・刑事連合部・民刑連合部といった。
 
<広島県裁判所とは>
広島地方裁判所調査によると、意外にも戦前幾度かの災厄…昭和20年8月6日の原爆によるものが最たるもの…にもかかわらず、明治10年以前の裁判資料が見つかった。広島大学法学部には、広島地裁本庁から移管された判決原本は、明治10年以降からしかない。
今回、明治5年から同9年の『裁判申渡案』のほか、明治7年からの『訴状受取録』を見たときの驚きと嬉しさは格別であった。というのも、広島県庁で裁判が行われていた明治9年12月に、県庁(当時、浅野藩菩提寺・国泰寺に県庁があった)が火災で焼失したという記録が残っていたからである。
『裁判申渡案』は明治5年から同9年までの各種民事事件のうち、59件についての判決案であるが、実質的には民事判決原本に相当すると思われる。
その内容を散見するうちに、明治9年代の判決言渡書の用紙がそれ以前の用紙と異なっていることに気がついた。
前半は半葉が黒線引縦8行ないし10行で一葉の中央部分に、広島県名(ただし、旧漢字)の印刷が見られる用紙であったのが、明治9年代では半葉が青線引縦12行で一葉の中央部分に『廣嶋縣裁判所』と印刷された用紙に変わっていた。このような裁判所名は司法省刊行『司法沿革誌』の明治9年代には見当たらない。調査後、この点を『広島県史』などの郷土史を中心に調べることにしたが、徒労に終わった。
ただ、県立文書館などで明治9年代の広島県2つ広島県史料などを通して、少しずつその存在や性格が明らかとなってきた。ただ、明治初期の司法---裁判(所)制度を知るには、地方制度との関連で見ておく方がよいだろう。
 

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