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日本文学・古美術・郷土史・・・ブログ「銀漢」(天の川)の続きです。

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頼 春風
(1753-1825)イメージ 2
 
イメージ 1左記の書は、文化丙子蒲月の年、すなわち文化13年5月に書かれたと思われる。
 
文化13年2月、兄春水
(頼山陽の父) が亡くなって三ヵ月後にあたる。
春風は、安芸国賀茂郡竹原(現広島県竹原市) の人。
頼亨翁の次子。頼春水、
頼春風、頼杏坪、三兄弟の一人である。
名は惟彊通称は松三郎、字は千齢、春風は号である。
14歳の時、兄春水に従って大坂に至り、父の命により医術を古林見宜に学ぶ。
兄弟3人大坂にあり、当時の文人達は、彼らの詩風を、春水の「方」、杏坪の「三角」春風のそれは「円」であると評したが、彼は詩風のみならず、人格・家族関係・処世いずれも円満の人であった。
父亨翁が病んだので、竹原に帰り、父に仕え、家塾「竹原書院」を開き、医を業として宗家を守った。のち、浅野藩(広島藩)より藩医に推された。
菅茶山年譜によって、茶山、春風の関係を見ると、天明8年(1788)芸州に遊んだ茶山が、帰途、はじめて竹原に春風を訪れている。また、文化2年(1805)にも、竹原頼家を往訪して、5日間滞在、頼家の人々と詩会を催して楽しんでいる。
春風は、郷里において悠々たる生活を送った後、文政8年(1825)9月11日、竹原春風館に没した。享年73歳。
 

内藤中心

内藤中心(なかご)イメージ 1
  
(1740-1817)
 
内藤中心は、土佐藩士として高知に生まれた。
土佐藩に仕えていたが、天明年間の末(1780年代後半)
脱藩し、小田郡烏頭村(現在の美星町烏頭) に移り住んだ。
この地で30年間、歌学に励むかたわら、後進の指導に努め、門人の数は千人を超えたという。
歌風は万葉調を重んじ、これを普及した功績は大きく、
近世吉備歌壇史上特筆されるものがある。
文化14年(1817)の当地で没し、その墓所の碑文は
昌谷精渓よるものである。
生前桜と古刀を愛し、涯号を桜の舎といい、歌集『桜の屋集』は後に門人が編んだものである。
生涯の詠歌は実に4万を超えた。
 
 
 
二六焼
                                
イメージ 1
    
 【佐々木二六】 (1857-1935)
 
陶芸家。愛媛県宇摩郡村松村 (現・四国中央市村松町)
出身。イメージ 2本名、六太郎。代々瓦製造に携わる家に生まれる。
徳島で、熊本の生人形に出会った事から人形制作に興味を持つ。その後、焼物を志し、各地の窯元を訪れて研究を重ねる。明治20年、相馬焼に着想を得て、村松村に二六焼を創設する。以後、内外の展覧会、博覧会に数多く出品し何度も受賞。宮内庁への献上もあった。
へらで形づくり、独特の彩色と釉薬を施した写実的な人物万年青などの植物、蟹や虎などの動物を得意とした。
 
<略歴>
◆安政4年(1857)6月26日−宇摩郡村松村に生まれる。
◆明治16年(1883)−徳島において、熊本の松本喜三郎の生          人形に出会い、人形制作を始める。
◆明治17年(1884)−村松村の大師の縁日で西国三十三ヶ所          の生人形を公開する。この頃、宇摩郡寒川村新長谷寺の開帳          の際に、「新長谷寺観音霊験記」を生人形で制作する。
◆明治20年(1887)−焼物を志し、各地の窯元を訪れる。村松村に帰郷し、窯業を          創始、二六焼と称する。
◆明治37年(1904)−セントルイス万国博覧会に出品し、銀賞を受賞。
◆明治43年(1910)−日英博覧会に出品、銅賞を受賞する。
◆大正11年(1922)−平和博覧会に花瓶を出品する。
◆昭和3年(1928)−昭和天皇即位に際して、「万年青」を献上する。
◆昭和10年(1935)12月14日、79歳で永眠。
                       
光親
                           「光親」短冊。
イメージ 1この作者、詳細不明。
小屏風に江戸期の歌人・香川景樹、加藤千蔭、内藤中心、熊谷直好、そのほか武将等…13葉の中の一葉。
 
【参考】
①<杉原光親>    府中市出口町「歴史の小径」より
「八ツ尾城跡」
建仁2年(1202)源頼朝並びに頼家に仕えた杉原伯耆守光平が頼家のとき備後守護職として鎌倉より来り八ツ尾城を築いたと芦品郡志や沼隈郡誌、更にはそれ以前の著書「西備名区」にもしるしてある。
「西備名区」は杉原光平から光親まで11代の城主の名をあげている。光親のとき天文の初め (天文元年は1532年)
丹州に移ると芦品郡誌には書かれているが、丹波の郷土史家に照会したが当時の丹波に入国した形跡文献はないという。また一説には尾張に移住したことになっており、これらについて更に調査研究の要がある。
郡誌は山名時氏が康安2年(1362)入城し杉原詮光がこれを
城内に迎へ、山名の別館を設け山名の将が城代となったと
伝える。城は杉原に返したが児とあれば山名が八ツ尾城を本拠にして戦った。山名が後、神辺城に移り杉原理興に滅ぼされるまで備後は実質的に山名の支配下にあった。
広島県史によると「椙原(すぎはら)泰綱請文」や「椙原光房奉書」「椙原親光注進状」等が尾道の浄土寺文書として保存されており、これらは八ツ尾城主に係る名前である。
なお杉原光平の子孫は御調郡木梨城主、山手銀山城主、神辺城主、土生村渕上城主となっており南北朝時代から足利
戦国時代にかけて目ざましい活躍ぶりが記されている。
杉原光親は、足利八代将軍義政の時代であることが判明した。文安年間(1444〜1448)御番帳の5番に杉原彦太郎の名が見え、光親と認定される。すなわち京都にて足利幕府の警固の任に当たっており幕臣であったことが判る。
豊臣秀吉の妻ねね(又はねい)は杉原氏の出であり、浅野長勝の養女となり、秀吉と結ばれた。ねねの父は杉原道松(定利)、母は朝日、祖父は杉原家利である。
「家利の祖父の世より尾張の国の住人とはなりてけり」と
新井白石の「藩翰譜」は述べている。
この家利の祖父なる人物は処処調べたが、どこにも出てこない。が、八ツ尾城主11代の杉原光親が年代的にも年齢的にも最も当てはまる。光親が京都より尾張に移住したと見ればつじつまが合ってくる。
②<揖斐光親>
美濃守護・土岐氏一族。子がなかった揖斐氏当主基信の養子として美濃・揖斐城主となる。後奈良天皇が資金不足にて10年間即位の儀式を行えずいたところ、1526
年献金を行いこれを実施させている。
1547年斉藤道三が守護土岐頼芸を大桑城に攻めて追放した際、頼芸に与した光親も、揖斐城をせめられて落城。城を脱出してその後は流浪するが、やがて復帰して斉藤道三の子義龍に従った。
 
③<葉室(藤原)光親>書風からみて時代が合わないと思われる
  (1176-1221)
平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原光親とも言う。権中納言・藤原光雄の次男。官位は正二位・権中納言。
寿永2年(1183)六位蔵人となり、まもなく叙爵され、のち豊前守・兵部権大輔・左衛門権佐・防鴨河使などを歴任する。正治2年(1200)右少弁に任ぜられると、翌建仁元年(1201)権左少弁に昇進し五位蔵人を兼ね、元久元年(1204)にはさらに左衛門権佐を兼任して三事兼帯となった。
建永元年(1206)蔵人頭・右大弁を経て、承元2年(1208)従三位・参議に叙任され公卿に列した。その後、建暦元年(1211)正三位・権中納言に昇進するが、建保2年(1214)権中納言を辞任する。
建保4年(1216)正月に権中納言に還任されるが、同年6月再び辞任し、翌、建保5年(1217)正二位に昇叙された。またこの間議政官として、右兵衛督・検非違使別当・按察使を兼任した。
一方で光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。
 
その他にも「光親」数々見られるが…省略する
 
稲垣三郎 (1870-1953)
 
イメージ 1
 
イメージ 2
           
     (稲垣三郎イギリス駐在中、高楠順次郎の妻露子宛絵葉書)       
陸士卒業後、秋山好古率いる騎兵第1大隊の配属となりイメージ 3
日清戦争に従軍。
明治32年、陸軍大学校を優等で卒業し、以降参謀への道えと進んだ。
1904年、日露戦争に満州軍参謀として従軍。
これに前後してイギリス駐在も数回にわたり務めた。
大正7年、浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に出征。
現役を退いた後、日本体育会体操学校〔現日本体育大学〕校長、閑院宮別当を務めた。
 
【軍歴】(1886-1923)
◆明治19年8月−陸軍幼年学校入学
◆明治24年7月−陸軍士官学校卒業(2期)
◆明治25年3月21日−騎兵少尉・騎兵第1大隊付、大隊副官心得
◆明治27年10月7日−騎兵中尉
◆明治30年10月25日−騎兵大尉
◆明治32年12月−陸軍大学校卒業(13期、恩賜)・騎兵第1大隊中隊長
◆明治33年3月−参謀本部出仕
◆明治33年12月−参謀本部員
◆明治34年3月−兼閑院宮載仁親王附武官
◆明治35年3月−イギリス駐在
◆明治35年12月19日−騎兵少佐
◆明治37年4月−参謀本部付 (兼載仁親王付)
◆明治37年8月−満州軍参謀仰付
◆明治37年11月−参謀本部付 (イギリス差遣)
◆明治38年4月19日−騎兵中佐
◆明治39年2月−インド駐剳武官
◆明治42年4月−騎兵第1連隊長
◆明治43年12月23日−騎兵大佐・イギリス大使館付
◆大正5年4月1日−陸軍少将
◆大正6年1月−参謀本部付
◆大正6年8月6日−騎兵第1旅団長
◆大正7年8月−浦塩派遣軍参謀 (第1課長)
◆大正8年6月−浦塩派遣軍参謀長
◆大正8年7月25日−陸軍中将
◆大正9年7月−参謀本部付
◆大正9年9月−国際連盟陸軍代表
◆大正12年4月−参謀本部付
◆大正12年8月−待命
◆大正12年9月1日−予備役
◆大正13年4月−日本体操学校長 (〜1939年10月)
◆昭和3年7月−閑院宮別当 (〜1945年7月)
◆昭和8年4月1日−後備役
 

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