|
同志社英学校の卒業生
(ロンドン在住中、麻生正蔵・元良勇次郎、高楠順次郎の妻露子宛絵葉書)
【同志社英学校】
新島襄が1875年に京都に創設した私立学校。同志社大学の前身。
同志社の建学精神はキリスト教精神に基づく「良心」である。新島襄は建学の目的として、「良心を手腕に運用する人物」の育成を掲げた。
知識教育に隔たることのないよう、キリスト教に基づく「徳育」を平行して進めることで、「良心の全身に充満」した人々を輩出したいと願ったのである。その思いを彼の筆跡のまま刻んだ碑が、今出川・京田辺両キャンパスの正面入口にある。この良心碑には、「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」という言葉が刻まれている。
また、この「良心」教育を具体的に実現するための教育理念として、「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」が掲げられ、これらを通じて「一国の良心」たる人物を輩出することを目指している。
【麻生正蔵】(1864-1949)
明治−昭和時代前期の教育者。
文久4年1月9日生まれ。
同志社英学校にまなび新島襄に感化をうける。同志社で教え、成瀬仁蔵とともに
日本女子大学校の創設につとめ、明治34年開校とともに学監、大正8年2代校長となる。昭和24年11月28日死去。86歳。
豊後(大分県)出身。
日本女子大学第2代校長 (1914.4−1931.4)…「就任の辞」
私は同心協力、多年事を共にしてきた兄の偉業を継承し、しかもその留守役を務めて居るのでありますから、従来既に主張し来った教育上の主義方針等の根本義即ち女子を人間として、婦人として国民として教育するという三大方針と、精神生活の原理として信念徹底に務め、社会生活の原理として共同奉仕の実を養い、研究生活の原理として自発創生の力を養うという三大教育主義とに関しては、何等変更を加うる必要がないのみならず、多々益々その本義を発揮せねばならないのです。
また女子総合大学としての完成事業も実は設立当時から30年を期したならば、本当の意味の女子大学として完全せしむる事が出来よう、またそうせねばならぬと、
お互い予期し、計画もしてきた事柄でありますから、これが完成に向かって微力を捧ぐるのは自然の数であります。
【元良勇次郎】(1858-1912)
日本最初の心理学者。
「元良」は勇次郎が結婚した後の姓である。
現在、一般に、元良勇次郎と呼ばれている。
なお船舶工学者の元良誠三と、物理学者の
高橋秀俊は勇次郎の孫にあたる。
勇次郎は、同志社英学校最初の学生(全8名)
で、開校当初に中島力造、上野栄三郎とともに真っ先に駆けつけた一人だった。
同志社英学校では当時としてはめずらしい性理学(現在の心理学)の授業が行われており、ここでの心理学との出会いが彼の一生を決定付けた。
明治12年(1879年)春、津田仙から学農社農学校の教員に招かれ退学(同志社には三年余り在学した)。その後、東京英和学校(青山学院の全身)の設立にも参画。
明治16年(1883年)、渡米しボストン大学、ジョンズ・ホプキンス大学に学んだ。
ジョン・デューイの講義を受ける。倫理学等も含めて学び、実験心理学の実験心理学の実験方法を体得した。ジョンズ・ホプキンス大学でPh.Dの学位を得て帰国。明治21年(1888年)に帰国し、東京英和学校の教員を務め、また帝国大学文科大学にて精神物理学の講義を担当。
明治22年(1889年)、外山正一(元、東大総長)、神田乃武(元、一橋大教授)と共に、正則予備校設立。後に正則高等学校となり現在に至る。
明治23年(1890年)、帝国大学文科大学教授に就任。明治26年(1893年)、心理学・倫理学・倫理学第一講座担当となる。
明治27年(1894年)、高等師範学校(現、筑波大学)において心理学を講じる教授を兼任。明治39年(1906年)、帝国学士院会員に任命。日本における近代心理学の礎を築くも、大正元年(1912年)、カリエスがもとで死去した。
それまで日本には、英語などの書物に書かれたもの、つまり知識としては心理学も日本には入ってきてはいたが、実際の具体的な手法は誰も体験しておらず、日本では心理学は存在しなかったと言える.勇次郎はクリスチャンの人脈を活かし海外に学び、そこで心理学の実験手法などを体得し、心理学を日本に持ち帰り、それを根付かさせた。
|
日記
-
詳細
コメント(0)
|
明治時代の裁判宣告記録
【広島裁判所管内尾道区裁判所宣告記録(明治13年11月24日)】
(宣告に大審院の言葉が・・・)
【申渡状 広島裁判所管内尾道区裁判所(明治13年7月8日)】
<大審院>
大審院は、大日本帝国憲法下の日本における最高裁判所である。
終審として、上告及び控訴院などがした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものと規定された。
明治8年、司法省裁判所に代わって東京に設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院とが明確に区分された。
明治23年、裁判所構成法が制定され、大審院を頂点に以下、控訴院・地方裁判所・区裁判所が設置された。昭和22年に、裁判所構成法の廃止に伴い、廃止された。
大審院には若干の民事部・刑事部が置かれ、各部は5人の判事の合議体によって構成され、裁判が行われた。大審院が従前の大審院の法令解釈を変更しようとする場合は、事件の性質に従い、民事の総部もしくは刑事の総部を連合し、または民事および刑事の総部を連合して合議体を作り、裁判を行った。この合議体のことを聨合部といい、各々その連合した部の名称を取り、民事連合部・刑事連合部・民刑連合部といった。
<広島県裁判所とは>
広島地方裁判所調査によると、意外にも戦前幾度かの災厄…昭和20年8月6日の原爆によるものが最たるもの…にもかかわらず、明治10年以前の裁判資料が見つかった。広島大学法学部には、広島地裁本庁から移管された判決原本は、明治10年以降からしかない。
今回、明治5年から同9年の『裁判申渡案』のほか、明治7年からの『訴状受取録』を見たときの驚きと嬉しさは格別であった。というのも、広島県庁で裁判が行われていた明治9年12月に、県庁(当時、浅野藩菩提寺・国泰寺に県庁があった)が火災で焼失したという記録が残っていたからである。
『裁判申渡案』は明治5年から同9年までの各種民事事件のうち、59件についての判決案であるが、実質的には民事判決原本に相当すると思われる。
その内容を散見するうちに、明治9年代の判決言渡書の用紙がそれ以前の用紙と異なっていることに気がついた。
前半は半葉が黒線引縦8行ないし10行で一葉の中央部分に、広島県名(ただし、旧漢字)の印刷が見られる用紙であったのが、明治9年代では半葉が青線引縦12行で一葉の中央部分に『廣嶋縣裁判所』と印刷された用紙に変わっていた。このような裁判所名は司法省刊行『司法沿革誌』の明治9年代には見当たらない。調査後、この点を『広島県史』などの郷土史を中心に調べることにしたが、徒労に終わった。
ただ、県立文書館などで明治9年代の広島県2つ広島県史料などを通して、少しずつその存在や性格が明らかとなってきた。ただ、明治初期の司法---裁判(所)制度を知るには、地方制度との関連で見ておく方がよいだろう。
|
|
栗林一石路
明治27年10月14日、長野県小県郡青木村で生まれる。
昭和36年5月25日死去。
一石路は俳句の人であり、ジャーナリストでもあった。
明治・大正・昭和の激動の時代を生き、内なる叫びとして俳句を詠い、その結果、治安維持法違反で検挙され二年以上獄中にあり、外に向けてはジャーナリストとしてギリギリのたたかいをしてきた。もちろん戦争にむかう時代の厳しい情報統制のもとではかぎりなく制限された。
敗戦直後、一石路はけっしてウソは書かないと決意して新聞「民報」を創刊し、自らの戦争責任を自己批判して再出発している。 (桜田義文・著)
【昭和22年10月9日付、栗林農夫(一石路)書簡】
シャツ雑草にぶっかけておく
一石路の代表句であるこの句は、大正15年夏、労働者が汗にまみれて働く情景を詠んでおり、やがてプロレタリア俳句運動の旗手として歩む一石路の出発点として位置づけられている。
この句碑は、長野県青木村の国宝大法寺の入口にある。
1991年5月、一石路の歿後30年を記念し、全国の俳人や青木村民などの募金で建立された。
【妻たけじとの出会い】(栗林一石路を語る会編著「私は何をしたか」) より抜粋
一石路の妻となる斉藤たけじは、明治30年、西塩田村の十人(現、上田市)という集落に生まれた。前橋女子師範を卒業、小学校本科正教員免許を取得し、群馬県の小学校で教壇に立ったあと、大正5年10月には給与15円で青木小学校に赴任している。したがって一石路が陸軍を除隊したときには、たけじは19歳で青木小学校の新任教師として、すでに教壇に立っていたことになる。
たけじが住んでいた十人は、温泉地として知られている別所まで約4キロ、青木村へ通うにはどの道を通っても峠を越さなければならない。一番近い道は殿戸峠を越す道で、十人から別所温泉まで一時間、別所から青木村殿戸まで一時間、そこから小学校まで30分かかる。
この峠道は今でも車は通れず、昼でも暗い淋しい道だ。20歳の娘がこんな道を通ったというのが信じられない。
軍隊から帰った一石路は、悶々とした生活を送りながら、五反の田と七反の畑と山林を所有する栗林家の跡取りとして百姓をし、村の青年会の活動に参加した。
すこし後になるが大正10年「青木時報」の納税等級一覧によると、栗林家は村内では「中の上」で、決して貧農ではない。地道な生活をしてゆくには十分な財産があったといえる。
家にしばられて生きるのか、自分をつらぬくのか、ふかい悩みをかかえてただひたすら黒い土をたがやす一石路だった。
土堀りかえし
そんな一石路に一筋の光がさしこんだのは、大正7年のことだ。そのころ一石路は青木学校同窓会の幹事をし、同窓会が毎年発行し村の文化の登竜門といわれた同窓会報(明治38年〜昭和3年、通算24号刊)の編集を担当しており、大正7年と8年は編集長だった。
その事務局が小学校にあり、職員室でお茶をいれてくれる若くて教養あふれる教師、斉藤たけじに出会った。
まいにち通る先生に村の山は枯れ
『2月1日、学校へ同窓会の幹事会にゆく、学校の玄関で斉藤が帰りかけたのをもどってきて、「『カラマゾフの兄弟』をまだ借りていてもようござんすか」と聞いた、すぐそばの職員室には校長や職員がいるのにとおもうと冷汗がたれるようであった。彼女は大胆にもそれをあえてして帰っていった。』
(大正8年「一石路日記」)
やがてこの年の3月、たけじに神科小学校 (上田市)への転勤辞令が出る。
このとき、一石路は「ハイネ詩集」(新潮社・大正8年3月四版)を贈っている。
『3月24日、T(たけじ)へ手紙を書く。そしてハイネ詩集を贈る。愛を告白した。』 (前出「一石路日記」)
詩集には、一石路の気持ちをハイネにこめたのか、赤線が引かれた詩があり、裏表紙には、「T・Sに贈る、T・Kより」と書かれている。
『3月26日、枕元へT(たけじ)からの手紙と一輪挿がおかれているのでそうっとみると、私はあなたを愛しているが、先にすでに愛を注いでいるひとがいるのでだめだという意味のことがあった。(略)懐かしいTよ、その恋人との生活に幸あれ。とうとうTとの交渉も切れてしまった。私は淋しい。』 (前出「一石路日記」)
この失恋が原因かどうかわからないが、一石路はこの年の「層雲」四月号から大正十年の三月号までの二年間、俳句の投稿はない。
『12月31日、顧みれば俺のこの一年の生活は、ほとんど失敗の一年であった。物質に欠乏し、請いに破れ、俳句に収穫なく、まったくいけない年であった。日記も約二ヶ月は全く空白であるのが恥ずかしい。しかし過去は悔いてもはじまらない。さらば大正8年よ。去れ、永久に去れ。』
(「一石路日記」)
苦悶のなかで一石路は大正9年を迎えた。村の先輩たちが縁談をもちこんできたり、Yという女性に想いをせたりするが、いずれも縁がなく、酒におぼれる泥のような生活をおくっていた。
『9月10日、斉藤さんから手紙が久しぶりにできた。(略)あ〜あ〜あのひとも失恋したのだ。なんということだ、かくて俺も彼女も倒れるとは、今の社会も、神もひどい、夜長い手紙を書いて、俺のことも知らせ、ちょっとなぐさめもした。』 (大正9年「一石路日記」)
傷心の二人に手紙のやりとりが復活し、11月23日、二人は人目を避けるようにして、上山田温泉で密会する。たけじの妹の相談ということで会った二人だったが、帰りの汽車の中では二人の気持ちは決まっていたようで、12月の17日にはこうある。
『たけじさんは俺と結婚することをきめた。たけじさんも嬉しそう。私もこんなに嬉しいことはない。夜いえに帰ってすっかり事情を打ち明け、両親の了解と賛同をえた。ああ真実の結婚をすることができるのだ。』
(前出「一石路日記」)
こうして二人は多くの障害をのりこえて、大正10年1月26日に結婚した。
|


