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1890年(明治23年)オスマン帝国(後のトルコ共和国)皇帝ハミッド2世が日本に特使を派遣した。
近い将来、日本と修好条約を結ぶためだった。
特使と乗組員を乗せた木造軍艦エルトゥールル号は、一年という長い月日を費やし、西洋から東洋へはるばる渡航した。
その帰路、熊野灘の強烈な暴風雨に遭ってしまう。
不運にも、和歌山県串本町樫野沖合で座礁。エルトゥールル号は遭難した。 
特使を含む518名は死亡したが、69名は、地元・大島村の村民による手厚い救護により尊い命が救われた。
この時の大島村の人たちは、度重なる台風によって漁ができなかった。
そのため自分達の明日の食料さえ底につく状況にあったのだ。
そんな状況だったにもかかわらず、あるだけの食料をかき集めて介護した。
非常時のために飼っていた鶏を、そして最後に残った一匹の鶏までも、トルコ人の口に合うように調理し食べさせたのだった。 
そして荒波で服をはがされたトルコ人達に、ありったけの衣料をかきあつめた。
西洋の大柄男が小さな着物を着た姿は実にチンチクリンな格好だったため、周囲につたない笑(えみ)をもたらしたという。
また、遭難者の遺体を必死で引き上げ、丁重に葬ったのだった。
このことは和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、天皇の命によって軍艦2隻で生存者をトルコに送り届けることになった。
そしてオスマン帝国は、生存者の救助や遺体の収容に献身的に力を尽くしてくれた大島村の人たちに多大なる感謝の気持ちを伝えたという。
一方、日本では新聞社の呼びかけで義捐金が集められ、犠牲者の遺族に送られた。
そんな中、一人の青年が個人で募金を始めた。
後にトルコの歴史に残るひとりの若き日本男児 山田寅次郎である。
彼はこう言ったそうだ。
「近い将来に日本と修好条約を結ぶべく、アジア大陸の西端よりはるばる、1年もかけて来日してよしみを結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや」
山田は旧沼田藩の家老の子として1866年(慶応2年)に江戸で生まれる。小学校をおえると英語、ドイツ語、フランス語などを学び、16歳で茶道「宗偏流」の家元、山田家の嫡子になった。
そして山田は全国を渡り歩いて得た義捐金をもって単身イスタンブールへ旅立つ。現地で熱烈に歓迎される。
外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝ハミド二世に拝掲する。
山田家伝来の鎧兜と太刀を献上した。
そこでオスマン帝国の高官は山田に、思いがけない要望をした。
この国を背負って発つ青年士官たちに、日本語と日本の精神や文化について教えて頂きたいということだった。
山田は友好親善のためトルコに留まった彼の教え子に、後にトルコ共和国初代大統領に就任したケマル パシャ氏がいたのは有名な話である。
それから95年後
1985年 イランの首都・テヘラン
イラン、イラク両国の複雑な民族対立とともに、石油輸出に関連した利権をめぐって勃発したイラン・イラク戦争から5年が経過していた。
長期化したこの紛争に、イラク政権を掌握し独裁を行っていたサダム・フセインがこのように世界に発信した。
「3月20日午後2時(日本時間)」をタイムリミットとして、この期限以降にテヘラン上空を飛ぶ航空機は、“軍用機であろうと民間航空機であろうと、いかなる国の機体であろうと、すべて撃墜する」
テヘランには約1000名の日本人が在住していた。おもにエンジニアや商社関係の家族などである。
この報道を受けて国外に脱出した人たちもいたが、タイムリミットを目前に約300人もの日本人が空港にかけ込んできた。
しかしここで予想外の事態が発生する。
ドイツやイタリア人は自国の航空会社による臨時便によって次々に退去していくなか215名の日本人が空港の中でパニックに陥っていた。
日本からは救援の見通しがつかないという。
このころ政府は救援策に戸惑っており、外務省は民間航空会社へ緊急に救援機の派遣を要請したが、当時イランと日本には定期便がなかったことに加え、帰路の安全が保障されていないことを理由に離陸できないという。
いつまでたってもラチがあかない、刻々と迫るタイムリミット。
そこに2機のトルコ航空機が到着した。日本人215名全員を乗せイランを飛び立った。
タイムリミットまでわずか1時間15分前であった。
なぜトルコの航空機が来てくれたのか日本政府もマスコミも知らなかった。
その当時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏はこのように語った。
「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
 僕はこの話を知りませんでした。日本人として少し恥ずかしい気がします。歴史の教科書に載せても良いのではないでしょうか?

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旅のブログ徘徊をしております!!
おお〜武装系ですかww
私も武装系が好きなので、よく武装のイラストを描いてます♪
そちら武装キャラ通なのでガンバレ!!

2007/6/29(金) 午前 10:14 [ - ]

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エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。
また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。

2017/1/1(日) 午後 4:38 [ 世界は仲良く ]

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