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この人天下人家康の次男です。
結城秀康 1754〜1607
ですがかわいそうな前半世を送っております。
少し顔が魚に似てるからって事で酷い幼名(於義丸)を付けられ、なかなか父とも面会させてもらえず、さらに(信康が死に)実質的には跡継ぎとなるはずの立場なのに秀吉の下へ養子に出されてます‥
ちなみに於義丸の於義とはギギという魚の事です。
今でいうと鯖男とかって名前になってしまった感じですかね‥酷いもんです。
似た境遇にいたのが6男の松平忠輝。
容貌の醜さからやはり家康に疎まれてます‥
ただ忠輝の場合は物凄く破天荒でした。ようやく最近徳川宗家から恩赦がだされたくらいですから。
家康という人物は容姿の良し悪しで子供に対する愛情が変わる変人です。
さて話を元にもどして秀康。
秀吉の下に養子に出されたかと思えば一転結城家へ。
秀吉が秀次を後継者と決めた事で養子としての価値も無くなってしまったようです‥
そして関ヶ原後下総10万石から越前68万石への大型加増を受けます。
まぁ長男が後を継ぐという通常の概念であれば秀康が徳川家を継ぐ立場であり、心中はどうだったか定かではないのですが、それでも幕府や秀忠には忠実だったようです。
仮に大阪の陣まで秀康が生きていて、大阪方に味方するなんて事があったとしたら面白かったと思います。実際に秀康は秀頼をかわいがり
「幕府が豊臣を攻めたら、自分は秀頼を助けて大坂城に入る」
なんて言っていたようですからね。
秀忠のほうが政治的に優れていて、親父に素直だったのでしょうがやはりこの時代を生きた人物としては魅力に乏しいものを感じます。
中国古典にも精通していたといわれる家康なので「唐」の時代の君臣問答
「創業と守勢のどちらが難しいか?」
という話でもあるように秀康が後を継ぐにはふさわしくないという事も理由の1つだとは思いますけど、結局は産まれた直後の第一印象が全てだったような気がします。
天は秀康に34年の寿命しか与えませんでした。
個人的には苦しい前半世を過ごしたご褒美で一度は天下を継がせてあげたかったなぁなんて思います。本多忠勝と本多正信も後継者にはこの人を推薦してましたしね。
参考:戦国武心伝/学研
※2009年5月19日改訂
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