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先日のブログにも書きましたが、宇喜多秀家挙兵についての続編です。もう少し考えてみました。
三成の挙兵について疑問があります。あれだけ切れる人物が合戦まであまりにもどたばたしすぎているなぁという事です。
家督を嫡男にゆずり、佐和山に隠居していた身で、これだけ多くの大名家をいくら豊臣家の為とはいえ賛同させることはできないはずです。これが宇喜多秀家ほどの地位があれば可能なはずです。
大谷吉継との最初の謀議が7月5日(2日の説も)。5日に宇喜多秀家が豊国社で出陣式を執り行っています。
この出陣式には北政所も参加していることと式の準備等でかなりの時間を要するはずです。ということは随分前の時点から挙兵を意識し準備していたのではないでしょうか?それであれば豊臣寄りの大名に早いタイミングで加担を要請していた可能性も‥
また三成、吉継との12日の謀議には安国寺恵瓊が参加しています。
これも「もし」なのですが、安国寺恵瓊が秀家→輝元からのつながりで早急な三成の加担要請をしに来たなんて可能性も。三成ほど頭が切れる人間であれば、勝てる可能性をもっと積み上げていくと思われますしその後も計画性がなくその場しのぎのような戦略があまりにも多い感じもします。ただ要求にしたがい準備も整っていない中加担したと考えればつじつまがあうのです。
また家康弾劾文は秀家の名前で出されています。内容からいっても前田家、浅野家などの加担も期待していたものと思われますが、そのような状況で、なおかつ上杉家と徳川家との接触もない状態で三成が中心となって挙兵をする事自体が考えずらいのです。秀家の先走りなら納得もいくのですが‥
まぁ突拍子もない考えかもしれませんし、またすぐに考えは変わるかもしれませんが秀家の出陣式のタイミングやらを考えるとそんな事を考えてしまいました。
過去に書いたブログとの矛盾点もありますが、想像してみるのは自由ですから!
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本当ドラえもん…って言うかタイムマシンが本気で欲しいですねw宇喜多秀家説は一利ありますね!!でも本当関ヶ原は石田三成の“誤算の産物”の気がします…豊家恩顧が全く錦の御旗とならなかったのも寂しいですよね…
2006/3/16(木) 午後 11:19
事実でありながら想像もできる事は歴史の面白さの一つだと思います。 事実と想像の中で歴史学が発展して、新たな事実が発見されるとまたそこにあらたな解釈が出来て‥終わりのない学問ですねぇ
2006/3/17(金) 午後 10:17