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『賤ヶ岳七本槍』筆頭。
伊予今治12万石の大名へ。
尾張清洲24万石の大名へ。
『関ヶ原の合戦』東軍先鋒。
関ヶ原後、安芸広島・備後鞆2州49万8千石の広島城主へ。
輝かしい経歴から一転、幕府にとっての要注意人物へ‥
福島正則 1561〜1624
その後は無断修築(実際正則は2ヶ月前から修復願いを出してましたけど‥)により信州川中島4万5千石に減封。
そして63歳で病没。
人生のグラフで言えば綺麗な山型といった感じでしょうかね。
それにしてもなんだかこの人物の人生は悲哀を感じさせます‥
秀吉に取り立てられ、その存在感の強さにより上手く家康に使われてしまった「不器用であり誠実である生き方」がそう感じさせるのかもしれません。
(人と人との関わりとしての)政治的な感覚は他の大名に比べて弱かったと思います。
弱かったというよりダメな部類に入るでしょうかね。
(ちなみに行政面ではなかなかの手腕を発揮してますよ)
そんな福島正則ですが、非常に人想いではなかったかというエピソードがあります。
宇喜多秀家との話です。
関ヶ原後の話ですが、上方の酒を江戸の福島屋敷に海路で運ぶ途中強風で航路がそれ船は八丈島へ辿り着きます。
八丈島にはかつての五大老宇喜田秀家が流刑されてきておりました。
島の住人からその話を聞いた福島正則の家臣はそれを不憫に思い、酒樽を2つ秀家の為においていくのです。
この事を家臣は福島家の江戸屋敷にて(恐る恐る)報告すると正則はこの家臣の行動を褒めるのです。
その後、八丈島付近を通る際、正則は秀家に品物を届けるようになったのです。
この時の正則の言葉として
「何もせずに帰ったら福島家の面目が潰れる‥云々‥」
という言葉が残されており、いかにも正則らしい面子にこだわった感がありますが、その言葉の裏には共に秀吉に大恩を受けた者同士として何かしてあげたかったという想いがあったように思います。
そして三成憎しという行動に代表されるように直情型であり、家康の側近達には余り好かれていなかったようですが、実際はなかなかの好人物だったのではないかと思います。
あれだけ仕える人物を変えた可児才蔵はその生涯を福島家で終えてますし、広島城明け渡しの際、家臣達は籠城して徳川に抗戦しようとまで言ってますから。
惜しむらくはもう少し政治的に動ければ違ったのかなぁと。
でもそうなると福島正則という人物の魅力は減ってしまうのかもしれませんね。
※2009年5月19日改訂
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人は良いんですけどね。アホだから家康に利用されたんです。悪いのは正則じゃなくて騙すほうです。
2006/4/19(水) 午前 4:50 [ 鳳山 ]
騙す、騙されるの時代ですからね。福島正則なんかはその典型ですしね。家康が一枚上手だったのだという事ですよね‥
2006/4/19(水) 午後 7:46
福島正則関連でもひとつ…TBしちゃいます…幕末300藩がネタ切れで…正直困ってます(笑)
2007/11/22(木) 午後 3:45
どうぞどうぞどうぞ〜
ネタは確かに少なくなりますよね‥同じ気持ちです‥
2007/11/22(木) 午後 9:41