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好きなエピソードで、美談です。
なのであまり個人的見解はいれずにそのままで‥
加藤嘉明の家臣の河村権七という人物がいました。
この権七、直情径行なところがあり、些細なことで主君である嘉明との間にちょっとした行き違いを感じていたため関ヶ原後に一通の手紙を残して出奔します。
「立ち退いても二君に仕えず、当家に一大事の事があれば、どこにいても駆けつけ、ご用にたちます」
権七はそれから諸国を流浪し、路銀も尽き、出羽で修験者になっている所に、大阪冬の陣が始まるのです。
加藤嘉明、福島正則ら豊臣恩顧の大名らは冬の陣が過ぎたら領地を没収されるであろうなどという噂が飛び交い、それは出羽の権七の所まで聞こえてきます。
権七はこれを聞くと「それは一大事」と、出羽より江戸に留め置かれている嘉明の屋敷に向かったのです。夜中江戸に着いた河村は取り次ぎの者に謁見を願うと、嘉明は多いに喜び、「急ぎ呼び入れよ」と命じます。
「‥‥‥‥‥‥」
嘉明は言葉はありませんでしたが、権七を見るなり涙を流すのです。
河村もこみ上げるものがあり、むせび泣きながら、
「思いもよらず殿の前にでること、今生の思いでございます。此度は‥」
「もうよい。戻ってきてくれるな‥その方の志言いようもない‥」
もとのように800石を賜るのです。そして、翌日勘定奉行から俸禄をうけられよと言われ受け取り場所まで行くと、金銀が並べられ、
「年々の禄高として取り分けてあった分、14年分11200石を受け取られよ」
といわれます。
権七は驚き
「14年の間は浪々としていたのでどうして俸禄をうけられましょうか」
と固辞するのを嘉明が聞きつけ、
「通常の心であれば、そのように思うだろうが、おぬしは立ち退く際に一書をしたため、二君に仕えず、当家に一大事あれば、どこにいようと駆けつけるとあった。此度、その言葉のように難関をしのぎ遠国より駆けつけてきた。その忠誠比類ないことこのうえない。それであれば14年の禄を主君が横領すべきでない。すべてあたえるのは当然である。受け取れ」
「‥‥殿‥‥」
河村はまたも涙をながすのであります。
加藤嘉明は正直良くないエピソードもある大名ですが、家臣に対してはおおむね良いエピソードの多い大名です(塙直之は有名すぎる悪例)家臣からすると仕え甲斐のある人物だったんでしょうね。
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いい話ですね。加藤嘉明の人柄がしのばれます。
2006/4/21(金) 午前 3:02 [ 鳳山 ]
民に対しては結構きつい政治を行っていたみたいですけどね‥ 家臣に対してはいい話が沢山ある大名ですよ。
2006/4/21(金) 午前 5:01
この記事以外にも嘉明に関する記事を読ませてもらいました。
いまいち彼の人物像がつかめませんが、
この記事などを読むとなかなか人柄がよかったのかなぁと思います。
彼に関する本などあれば読んでみたいのですが、
何かオススメがあったら教えてほしいです。
また、大学に行ったら史学科に進もうと思っているので、
もっと歴史に触れたいです!
2008/1/26(土) 午後 10:34
なかなかの人物だったようですね。
藤堂高虎に会津転封の話があった際に、推挙した人物が普段折り合いの悪い加藤嘉明であったという話も有名ですよね。
史学科は羨ましいです(あきらめたクチなので‥)
2008/1/26(土) 午後 11:01
でも…息子明成は…史学科は本当に羨ましいですねwまるこも…同様のクチです(笑)
2008/1/28(月) 午前 0:54
明成も凡庸ならまだしも‥
今ならもっと勉強して‥っていう後悔は沢山ありますよね〜
2008/1/28(月) 午前 1:31
すみませんがこの話の出典をお教え願いないでしょうか。当地松山において、権七は関ヶ原の後、支城の川之江城の城主に任じられます。その後隣国の藤堂と国境紛争である灘騒動などのトラブルを起こした黒幕として城主を罷免されたものの、6千3百石取りの大身家臣として権勢をふるったとされ、上記のエピソードとは少々違っているようなのですが。
2009/9/23(水) 午後 7:31 [ oya*i*atai*en ]
はじめまして。
回答遅れてすみません。
ちょっと探してみたのですが本が大量にあり見あたらないのです‥
確認できたらまたコチラの記事に記載しますので‥
2009/9/27(日) 午前 11:31