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初名は吉弘鎮種ですが高橋紹運の方が一般的ですね。 立花道雪とは盟友であり、実の親子のような関係にあったとも言われています。武勇も道雪に勝るとも劣らないほど秀でていました。 1569年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これを鎮圧した後、吉弘鎮種は、大友宗麟より高橋氏を継ぐことを命じられて、姓を高橋と改め、同時に名も紹運と改めて、岩屋城と宝満城の二城を与えられます。 1581年、実子の無い道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を養嗣子として立花氏にくれるように請われます。 紹運は、統虎は高橋氏の跡継ぎであり、その優れた器量から、これを最初は拒否していましたが、他ならぬ道雪の度重なる要請に遂に、養嗣子として統虎を立花氏に出しました。 このとき、紹運は統虎に対して、「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い、また一振りの太刀を与え「道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て」と訓戒したといいます。 この頃、大友氏では耳川の戦いの大敗により衰退の一途をたどっていました。 このため、紹運は道雪とともにたびたび、反大友勢力に対しての鎮圧のために出兵しています。 しかし1585年に道雪が病没してしまうと、島津氏の本格的な反攻が始まることとなるのです。 ここからが高橋紹運の人生のハイライトです! 1586年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万を号する大軍を率いて、紹運以下763名が籠もる岩屋城に侵攻して来ます。 家臣たちは口々に紹運に援軍を求めるよう迫ったが、紹運は頑として受け付けませんでした。島津軍は少々の援軍などかえって餌食になるだけの大軍だからです。加えて島津軍は勇猛果敢で知られる薩摩の精鋭。この時紹運はすでに玉砕を覚悟していたのです。 開城を勧告する島津の軍使に対しても紹運はかたくなに首を振り続けます。かくして、壮絶な岩屋城攻めが始まるのです。 これに対し紹運は徹底抗戦を行ないます。 攻防戦は半月に及びます。 ですが高橋勢は全員玉砕し、紹運も切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。 島津の兵たちは皆、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したといいます。 岩屋城は陥落してしまいましたが、このときの紹雲の凄まじい抵抗により島津軍も4000人近くもの死傷者を出してます。島津は勢いに乗って立花山城の統虎を攻めますが彼の強力な抵抗に遭い、奪取はできませんでした。そこへ宗麟からの援助要請を受けた秀吉の援軍が迫ってきたため、島津軍はとうとう退却する事になりますが、統虎はこれを追い、何と岩屋城を取り戻すのです。 猛将の血は確かに統虎に受け継がれていたのです! なお、763名の英霊の菩提寺は太宰府市新町にある西正寺で、高橋紹運公の首塚は般若寺にあります。 紹運が島津軍と戦った岩屋城跡には、紹運の墓と『嗚呼壮烈岩屋城城址』と記された石碑が立っています。 辞世の句は 『かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ 雲ゐの空に名をとゞむべき』 |
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実は私の先祖は柳川藩士で、紹運の子、立花宗茂に仕えていたそうなんです。岩屋城跡を訪れた時、感慨深いものがありました。
2006/5/18(木) 午前 2:08 [ 鳳山 ]
おお〜っ!!!それは凄い!!!そんな事実をがあって岩屋城跡なんか行ってしまったら何か心にくるものがありますよね! 自分の同僚が1番好きな戦国武将が高橋紹運で一度でいいから岩屋城跡に行ってみたいと言っています!
2006/5/18(木) 午前 2:15
こんなところで鳳山サンのご先祖様を知るとは奇遇!!今回高橋紹運の次男坊とその舅の記事をUPしたんでTBしちゃいますw
2009/9/15(火) 午後 8:45
自分の先祖はどうやら父方が赤穂藩士で母方が岡山藩士のようです。
父の兄が調べていて父方は300年位前までは遡れました。
その先はわからないんですよね‥
2009/9/21(月) 午前 11:22
私の守護霊さまです
2010/4/18(日) 午前 7:34 [ サガントス ]