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ですがこの人物もなかなかのモンです! 朱治の姉の子で子供のいない朱治が孫策に願い出て13歳で養子となります。 200年孫権が孫策の後を継ぐと同年齢の朱然を余姚郡の県長とします。ここで実績をあげて臨川郡の太守になり2000人の兵を与えられます。さらに偏将軍に任じられるのです。 関羽攻撃の際朱然は潘樟と共に別動隊を率いて関羽を捕えます。劉備がその復讐の為に進攻してきた際はその先鋒を破り退路を遮断しその功により征北将軍に昇進します。 『演義』ではここで戦死しています。朱然にとっては失礼な話ですね。 この年曹丕は曹真・夏侯尚・張郃らに朱然がこもる江陵を攻撃させます。 その時城内の兵士は病気を患って入る者が多く戦える兵士も少なかったのですが朱然はよく耐え魏軍を撃退しさらに、敵陣を2つ陥落させています。 この攻防により朱然の名は隣国にまで鳴り響くようになるのです。 朱然の人物を認めていた人物の一人に呂蒙がいます。 呂蒙が重態の時に孫権に以下のように問われます 「もし卿が再起出来ないとしたら代わるべき者は誰であろう?」 そこで呂蒙はこののように答えます。 『朱然は胆力・実行力の点でも十二分ですから、彼こそふさわしいと思います』 朱然は身長七尺(167cm)に満たない小男であったそうです。 性格はさっぱりしていて危機に臨んでも慌てない点から戦うたびに勝利を得たために絶大な信頼を得ました。 245年に陸遜が死ぬと昔からの功臣・名将の中で生存しているのは朱然だけとなってしまいます。 その朱然も病が重くなると孫権は病状を上奏する使者を自ら引見し様子を尋ね、薬や食事を送り続けました。孫権がこれだけ心配した創業の時期からの家臣は他には呂蒙・凌統くらいなものだったそうです。 1984年6月に安徽省馬鞍山市の紡績工場拡張の際に偶然にも朱然の墓が発掘されました。
その札には『持節右軍師左大司馬當陽侯朱然再拜』と記されていて埋葬品の数は140点余りで、三国時代の遺跡の中でも最高水準のものであったそうです。 |
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