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‥やはりどう考えても名門であろうとダメな人間はダメでした‥ 郭嘉は曹操と袁紹の違いとして次のようなことを挙げています ■外面は寛大でも実は猜疑心が強い威厳のある風貌をしていたようですが配下を疑ってばかり‥■人を用いる場合でも信用しきる事ができない田豊が良い例です。 『悲運の参謀』■策謀のみ多く決断力に欠ける田豊・沮授ら謀臣を多く抱えていたのに決断力不足のせいでナイスアイディアを逃しまくり‥決断力に欠けるといえば後継者問題でもその能力をいかんなく発揮!■時期を見る目がない董卓を呼び寄せてしまう所なんか何も見えていないのが浮き彫り‥■虚勢を張るが軍事の要諦を知らない官渡の戦いをみれば一目瞭然‥■自分の事しか考えていない董卓討伐の兵を挙げた際も盟主でありながら董卓そっちのけで劉虞を皇帝にしようとしたり、仲間の韓フク(漢字が出ませんでした‥)を脅迫して冀州を奪ったり、公孫瓚と戦ったりと馬鹿丸出し‥などなど‥ 絶対仕えたくない馬鹿君主です‥ 曹操にいたっては 「袁紹は志は大きいが知恵は浅く、顔つきは猛々しいが肝は小さく、人を妬んでこれに勝とうとするが威厳に欠ける。兵数は多いもののけじめが明らかでなく、将は驕って政令に一貫性がない。土地は広く、食料は豊かだとしてもまさに私への捧げ物になるだけだ」 と最高にけなしています。これほど爽快にダメな所を指摘するとはさすが曹操!!という感じですね。 四世代に渡って三公を輩出した袁家の家系図を見ると(はっきりしていない部分もあるそうですが)‥ 袁湯【太尉】‥袁紹の爺さんにあたる人です。この人には4人の息子がいました。 袁平・袁成・袁逢【司空】・袁隗【司徒】です。 袁紹はこの内袁逢の息子で袁成に養子にだされます。袁逢にはあと2人息子がいました。それが袁術と袁遺です。なぜ袁紹が養子にだされたかというと庶子であるからだと思います。血統的に言えば袁術のほうが優位な立場だったんですな。どっちもどっちですけどね‥ 袁紹も袁術も名門という名前に驕り我を通し人の意見も聞かずにいるのですから滅亡するのも当然の事です。
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結局、この方は祭り上げられるだけの存在であればよかったのに、自らが権力を振りかざしたのが失敗でしたね。かといって、曹操あたりに実権を与えていたら、用が済めば殺されたかもしれませんが。
2006/5/30(火) 午後 7:13 [ ake*hi1*820*0* ]
とはいえ、後に権力の座についた曹操と敵対したことから、史書にボロカスに書かれた可能性はあるかと思います。董卓もそうですが。
2006/5/30(火) 午後 7:14 [ ake*hi1*820*0* ]
どちらにしても乱世を生き残る器ではなかったんだと思います。乱世において名門出はそうゆう所が多いですよね。
2006/5/30(火) 午後 7:15
名門出のぬるま湯になれちゃってたから、曹操みたいに自分で死線をくぐってきた人物には及ばなかったんですかね??
2006/5/30(火) 午後 8:08 [ プラス ]
生い立ちと成長の過程が違いすぎたのだと思いますよ〜!それが成人してから凄く影響しているんでしょうね
2006/5/30(火) 午後 8:16
袁一門は、あれほど大勢力を誇ったのに、あっけなく滅びましたね。器量がなかったと言う事でしょうか?荊州の劉表も似たタイプですよね。
2006/5/31(水) 午前 1:03 [ 鳳山 ]
器量はやはりないとおもわれます‥劉表も同じです‥共に後継者争いでも家を潰すきっかけをつくっていますし‥
2006/5/31(水) 午前 1:34