この将軍『演義』では馬超にあっさり殺されています。ですが正史ではその時代にはすでに亡くなっています‥演義によって事実をゆがめられた将軍がここにも‥
李通文達 168〜209 陽安都尉・都亭侯
江夏郡の人で侠気によって汝南郡一帯で有名でした。
同郡の陳恭とともに汝南で挙兵します。すると李通を慕って多くの人が随従します。
これは自衛集団としての挙兵で、各地を転々とした挙句に良い土地を見つけそこに防壁を築いて生活をはじめます。これは「塢(ウ)」と呼ばれるもので許褚も同じような事をしています。
当時汝南は黄巾の乱の影響もあり乱れまくっていましたが李通は勢力を拡大していきます。
194年にイナゴの発生で大飢饉になりますがこの時李通は家財を投げ打ち食料を求め配下の者たちに分け与え、配下たちは一層李通に忠誠を誓うようになります。
196年に李通は配下を引き連れ曹操を訪れ進んで配下となります。曹操は李通を「振威中郎将」に任命し汝南の西堺の朗陵に駐屯させます。
197年に曹操が張繡に大敗し曹軍は壊乱状態になります。これを聞いて真っ先に駆けつけたのが李通で、到着した時は夜でしたが李通は先頭に立って奮戦し張繡軍を撃退します。この功により「裨将軍」に任じられ「建功侯」に封じられます。曹操はさらに李通を「陽安都尉」とします。
200年官渡の戦いの際に袁紹は李通を招こうと使者を送り征南将軍に任じるといい、さらに劉表からも誘いがありますが李通はどちらもあっさり拒んでいます。この際李通の親族や部曲達は
「今、孤立して守るだけで、強力な救援もありません。滅亡はたちどころに訪れます。早く袁紹に従うほうがよいでしょう」とすすめます。しかし李通は刀の柄に手を掛け
『曹公は賢明な方で、必ず天下を定めよう。袁紹は強盛であっても人の使い方がでたらめで、ついには曹公の虜になるだけである。私は死んでも二心を抱かない』
と叱りつけて袁紹の使者を斬ります。
この後陽安の賊を破り、淮水・汝水を平定しその功により「都亭侯」に改封され汝南太守に任じられます。
208年赤壁では曹仁を救い出す活躍も見せていますが、帰国の途中に病死しています。魏にとってこの将軍の早くしての死は惜しいですね‥
爵位は子の李基が継ぎます。曹丕は李通が官渡の戦いの際に二心を抱かずに忠節を尽くした事を褒め李基を奉義中郎将とします。またもう一人の子李緒は樊城において曹仁と共に戦い戦功があり平虜中郎将をあたえられます。
早世が惜しまれるのは郭嘉だけではないのです。
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