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丹羽長秀の話で有名なのは織田家の柴田・丹羽の双璧といわれることから、木下姓だった秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請したという話や、「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退(の)き佐久間」なんて言われているほど(米は生活に欠かせないとい事から)優れた人物なんですけどね。 京都御馬揃(1581年)においても、一番に入場するという厚遇を与えられていますし、安土城の普請奉行などを務めるなどという事もしております。 ですが軍事面においては鬼五郎左と呼ばれたほどの猛将でありながら秀吉、勝家、光秀らのように軍団を率いる事もなく、織田信孝の四国征伐軍の副将を命じられています。 こうゆう差があった事が重臣でありながら長秀がパッとしない原因なんでしょうね。 本能寺の変が起こり、長秀は信孝を補佐し羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討ちます。 秀吉の下に参じているものの京都に一番近い距離にいながらここでの決断の遅さが長秀という人物の限界だったんでしょうね‥ その後の清洲会議では秀吉を支持。 1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に越前・加賀二郡を与えられ、約123万石の大大名となります。 ですがここが丹羽長秀の人生のピーク‥ この後すぐに胃癌のために死去しますが、ここでも有名な話を長秀は残しています(諸説あり) 織田氏をないがしろにする秀吉のふるまいを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺し、その際自ら取り出した内臓の病巣の部分を秀吉に送りつける。 物凄い根暗な仕返しに感じますが、これは、 ■長秀は妻は織田信広の娘であり、嫡男の長重も信長の四女を娶っていて織田家との姻戚関係が強い。 (他の家臣には見られない事です) ■長秀は信長から「長」の字の偏諱を受けている。 ■信長曰く「長秀は友であり、兄弟である」 などという理由からであります。 もっと評価されてもいい人物だと思うのですが長秀という人物は大樹があってこその人物だったのでしょうね‥
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丹羽長秀ですが、優れた人物ではあったようですが、与えられた国は小国の若狭で
あったりと、知名度と実績のわりに実力に欠ける印象をうけます。賤ヶ岳あたりの
段階では、長秀は秀吉の織田家中での先輩という点しか優位なところはないですからね・・・
2008/1/4(金) 午前 3:39 [ jir*_*abu*o_*006 ]
天下取りという野心を感じさせない人物ですよね。
信長政権における覇気のない石田三成のようなイメージが強いです。
2008/1/4(金) 午後 0:27
サッカーに例えるなら、目立たないけれど欠かせないボランチにいるような武将でしょうか。派手なFWの秀吉や勝家に比べると目立たないでしょうが、信頼は扱ったでしょうね。
2008/1/5(土) 午後 10:46 [ ake*hi1*820*0* ]
米五郎左と言われた人物ですからね。
野心もなく有能というのは上からすると扱いやすい人物だったでしょうし、信頼もされてのではないでしょうか。
信長の性格からすると少し物足りないところがあったかもしれないですけど。
2008/1/5(土) 午後 11:42
温和で実直…お城作りの名人ってイメージがありますねwまた新年早々TBしちゃいます!
2008/1/11(金) 午後 10:40
戦場での働きがあるにも関わらず、安土城の普請奉行をおこなっている事などからそんなイメージなんでしょうかね。
2008/1/12(土) 午後 1:12
豊臣秀吉の前の姓 羽柴 の羽は長秀からとったほど優秀な武将だったんですよねー。勇士だったんでしょうね。
2008/3/9(日) 午後 8:04 [ 馬場美濃守信春 ]
その頃の織田家中の実力者でもありましたからね。
秀吉一流のおべっかも相当に含まれていたんでしょうけどね〜
それでも優秀な人物だったと思いますよ〜
2008/3/9(日) 午後 11:59
久々のTBですw
2009/2/6(金) 午後 10:49
重臣でありながらイマイチ目立たないですよね‥
この人‥
2009/2/7(土) 午前 8:53