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加藤清正、福島正則ら武闘派の七将が石田三成邸を襲撃!! 三成は徳川家康の元に逃げ込みますが、この出来事でのちに佐和山への蟄居を命じられます。 さてこの襲撃事件一般的に知られている大名は『関ヶ原始末記、徳川実記』などに記されている 加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤義明ですが 『慶長年中ト斎記』の記述では以下の七人。 加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤義明、脇坂安治 さらに『閏三月五日付家康書状』では、 加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀一茂、藤堂高虎 となっております。 さらにさらに『義演准后日記』には、 「大名十人とやらん、申し合わせて訴訟すと云々」 と記されているそうです。 『義演准后日記』 1596〜1626年にかけて書かれた醍醐寺座主義演の日記。 豊臣時代終期から徳川時代初期の政治、朝廷、公家、宗教関係の動向が判る史料。 全62冊で一部を除いて自筆原本が残る。 慶長年中ト斎記や義演准后日記は信憑性の高い資料だそうですが、一体本当に襲撃した人物は誰だったんでしょうね? 参考資料
『決戦関ヶ原/学研』 |
戦国ミニ知識・小話
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池田輝政は関わっていなかったのですかね?口では攻めようと言っておきながら、いざとなったら動かなかったのかもしれませんね。現代でもいますよね、そういう人。
2009/3/4(水) 午後 11:16 [ tenkai ]
う〜ん...。
やっぱりいつ見てもすごいですね〜。
戦国の宝庫だな、これは。
2009/3/5(木) 午後 5:56 [ kkk ]
そうかぁ〜。
勉強になります(^。^)
襲撃者気になりますね〜。
2009/3/5(木) 午後 11:10 [ sen*ok*hom*50 ]
まさにレディースDAY翌日の事件とは…
2009/3/6(金) 午後 5:10
池田輝政は他の大名と比べると温室育ちですから、口だけだったという事もあったかもしれないですね。
こと石田三成に関しては他の大名より冷静に見ていたんでしょうかね。
2009/3/7(土) 午後 0:36
crowさんへ!
ありがとうございます。
まだまだ勉強中の身ですが楽しんで頂ければなによりです。
2009/3/7(土) 午後 0:38
sen*ok*hom*50さんへ!
義演准后日記には10人と記されていますからもしかしたら記事に記載している10人かもしれないですね。
さらにもしかしたら他の人物がいたかもしれないですね〜
2009/3/7(土) 午後 0:41
まるこさんへ!
ひな祭りの原型は平安時代からあったみたいですね。
もうこうゆう時代ですと平和的風習なんて関係ないんでしょうね。
2009/3/7(土) 午後 0:43