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真田一族は信繁(幸村)を筆頭に昌幸などは有名ですが信綱、昌輝の兄弟はさほどクローズアップされる機会がないような気がします。 真田 信綱 1537〜1575 源太左衛門尉 オヤジは謀将と謳われた真田幸隆です。 弟には家康も恐れた天才昌幸がおります。 そして甥っ子には幸村。 そんな凄いオヤジと弟と甥っ子を持つ信綱なので影が若干薄いのはしょうがないのですが、この人物もなかなかのものです。 武田二十四将の一人ですから凡将でないのは確かですが資料が相当少ないようで‥ 戦歴としては、 1561年に第4次川中島の戦いに参加。 1566年の駿河攻めでは弟昌輝とともに先鋒を努め今川軍を壊滅させています。 この時信綱は200騎を率いていたとされ(『甲陽軍艦』なので怪しいですが)この兵力は武田軍の中でも上位にあったようです。 その後の三増峠の戦いでも昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げていて大切な戦には必ず従軍していて当然三方ヶ原の戦いにも先陣7組の6番目で参戦。 家康を蹴散らします。 1574年にオヤジが病没すると信綱は真田家を束ねる立場となります。 これからさらに真田家を盛り上げて行こうとした矢先に勃発するのが長篠の戦い。 1574年4月、勝頼からの出陣命令が下ります。 真田家当主として出陣し長篠城を攻めるも落とす事が出来ずそうこうしているうちに信長、家康が設楽原に到着。 この時点で山県昌景らとともの信綱は撤退を主張しますが‥ 戦上手は流れを見る目もたしかなものです。 この時に勝頼がこれを受け入れていたら武田家はもう少し延命出来たでしょうね。 ですが勝頼には受け入れられずに結局馬場信春らと共に右翼を担当する事となります。 不利を知りながらも信綱は馬場隊とともに織田左翼を圧倒し馬防柵を突破します。 ですが全線に渡り犠牲者が増えた事でようやく勝頼は退却を命じます。 この戦いで信綱は気合の入ったところを見せ16もの首級を挙げております。 (弟の昌輝が挙げた首が16との説もあり) ここから織田、徳川連合軍は武田軍の追撃をはじめます。 信綱・昌輝兄弟は勝頼を出来るだけ逃がすべく奮戦するもここにあえなく戦死してしまうのです。 39歳での戦死なので親や弟、甥っ子に比べて余りにも若いです。 もう少し長生きしてたらまた違う人生だったんでしょうね。 生まれた時代が少しだけ違えばといったところですかね‥ 信綱を討ったのは徳川家の渡辺政綱だという事ですが、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の白河兄弟が甲斐に持ち帰ったとされ、この「血染めの陣羽織」は、上田市の信綱寺に現在も収蔵されています。 (首は敵に持ち去られたものの、胴以下は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が小県郡真田郷へ持ち帰り、そのまま埋葬したとの説もあります) 参考:戦国武心伝/学研
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戦国人物
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マーハルさん。おはようございます
私も名前だけで殆ど活躍は知りませんでした。
他の3人の印象がとても強いですね。
2009/5/9(土) 午前 6:48
おはようございます。
この3人に信之を加えた4人が真田では有名ですからね。
いかんせん活躍期間が短すぎましたね。
2009/5/9(土) 午前 11:13
小説の影響で信之が好きなのですが、真田家系は魅力的な人物が盛りだくさんですね。幸隆、頼綱、信綱、昌輝、昌幸、信之、幸村・・・、恐ろしい一家ですねw
2009/5/10(日) 午前 0:10 [ tak**o12*0 ]
一族でここまで傑物が出続ける一族ってなかなかいないですよね〜
あとは島津家くらいかなぁと思います。
2009/5/10(日) 午前 11:19
そんな歴史があったんですか…「信玄は我の死を3年間伏せよ」と言う言葉を勝頼は押し切り、領土を広げていったようにお聞きしてましたが、真田が滅びたのは残念です。ということで時間になりましたので、大河ドラマ見ま〜す!失礼〜☆
2009/5/10(日) 午後 7:54
詳細は憶えていないですが信綱の血筋はその後も残っていたと思いますよ。
自分も大河みましたよ〜
今週もイマイチでした‥
2009/5/10(日) 午後 9:30
やぁ、Wコメ失礼!大河イマイチでしたねぇ〜☆躍動感がない。本能寺の変で「信長、敦盛歌わんの?何で爆死!?」と史実をくつがえすような映像ばかりでした。たしかにどこが主体なのか、今一つまとまっていませんねぇ〜☆おトラの感想でした♪
2009/5/10(日) 午後 10:35
もう史実を無視した造りには慣れっ子になってますのでこれしきはすでに許容範囲です(笑)
この先天地人が盛り返せるのかさえ微妙ですがここまできたら最後まで観ようと思っております。
2009/5/10(日) 午後 10:46
真田で残ってる血筋は信之の家系と女系ですが幸村の娘の家系だけだったような気がしますね。信綱は私の私的な考えですが死亡時の年齢39歳というところからしてもし男児がいるのなら相応の年齢になってると思われるのですが、真田本家を継承したのが昌幸だったところを見ると詳しくはわからないのですが子供がいたとしても女子だったのではないかと思います。長篠の際もかなりの奮戦だったのではないかと思いますが、やはり資料が少ないためか詳しくわからないのが残念だと思います。もっと光が当たってもいい武将だと思いますね。
2009/5/14(木) 午前 8:37 [ - ]
信綱の娘は真田信之の側室となり、子を残したか定かではないようです。
他に2人の子供(幸興・幸光)がいたとされています。
(実子かどうか完全に判明はしていないようですけど)
血筋が残っているとの記載は調べ不足でした‥
こうゆうところも今後の調査やら新しい資料の発見が待たれますね〜
2009/5/14(木) 午後 9:05
そうですね、ほかの二人に関しては私も少し調べましたがどうやら戦死か病気かは判明しませんが後に続いてないところを見るとそこで絶えたと考えるしかないようですね。功績や活躍がどこを見ても無いところを見るとおそらく武田の滅亡のときに死んだと見るしかないような気もしますが、もしかしたら真田昌幸の家臣になって生き残ってたりという可能性も無いとはいえないと思いますね。
2009/5/15(金) 午前 3:07 [ - ]
戦死か病死かはたまた苗字を変えて他家に仕えたか、もしかしたら帰農してしまったか‥
資料はもしかしたらあるのかもしれないですが、わからないですね。
専門的に調べている方なら何か知ってるのかもしれないですけど。
2009/5/16(土) 午後 0:04