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『今日は何があった日?』‥思い立ってからまだ2回しか記事にしていないのですが、なんの因果か丁度明日は『関ヶ原の戦い』の日です(旧暦と新暦の差は大目にみてください) そしてこの記事を書いている406年前の今頃‥ 雨が降りしきる中、遥か彼方に見える長曽我部盛親隊の陣の松明の篝火を目印に戦闘に石田三成隊。次いで島津義弘隊・豊久隊、小西行長隊、宇喜多秀家隊と進軍していたのです。 どんな気持ちだったんでしょうね‥ふとそんな事を考えたので少し記事にしてみました。
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2006年09月14日
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小山で西軍挙兵を聞いた家康は9月11日に美濃赤坂に本陣を構えます。 赤坂の動きを察知した西軍の兵は動揺します。三成の家老島左近は動揺が広がるのをまずいと考え、 『兵の動揺を鎮めるには、まず一戦に及び状況を打診してみてもよいのでは‥』 と三成に献策し、蒲生備中とともに500の兵を率いて出陣する事を許され、宇喜多秀家から家老の明石全登や本多但馬ら800の兵を与えられてこれを後陣に備えさせます。 左近は一隊を草むらに隠しておき、自身は池尻口から杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の前で刈田をして敵を誘います。 この行為に挑発された中村隊の兵が左近方の兵を撃ち殺します。これに応戦した左近方がこの中村兵を射殺すると、戦の火蓋が切られ中村一栄の家老野一色頼母・薮内匠らが出撃します。左近はこれに応戦し、わざと猛攻撃を支え切れないように見せて川を渡り退却すると、頼母らは川を渡って追撃にかかるのです(左近と頼母らでは将としての資質が違いすぎるのでこんな作戦にも見事に引っかかるのですね‥) その時草むらの伏兵が現れて中村隊の退路を断つと、敗走と見せかけた兵も急に反転して挟撃、乱戦の中に頼母を討ち取ります。中村隊の苦戦を見た有馬豊氏は急ぎ救援に出陣し、迎え撃った左近・蒲生勢と激戦を展開します。乱戦となりますが、そのとき迂回してきた明石全登隊から集中射撃を浴びせられ、苦戦に陥ります。一部始終を望見していた家康は、左近の計略にはめられたことを知ると、井伊直政・本多忠勝に命じて兵を撤収させます。 戦意高揚という目的を果たした左近は、深追いはせずに軍を引きあげ、これに家康は「敵ながら天晴れ見事な働きぶり」と称賛したと伝えられています。 関ヶ原の前哨戦『杭瀬川の戦い』は小戦ながら見事西軍の勝利に終わるのです。
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