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■元親の子供 長宗我部信親(元親長男)‥戸次川の戦いにおいて22歳にて戦死 香川親和(元親次男)‥21歳にて病死(異説あり) 津野親忠(元親三男)‥29歳で盛親により殺害される 長宗我部盛親(元親四男)‥1615年六条河原で処刑 長宗我部右近大夫(元親五男)‥加藤清正に仕えるも大坂の陣で兄盛親に連座して切腹を言い渡される 長宗我部康豊(元親六男)‥大阪後酒井家に仕える ■盛親の子供 長宗我部盛恒(盛親長男)‥大阪落城後、京都で捕えられ処刑 長宗我部盛高(盛親次男)‥大阪落城後、土佐で捕えられ処刑 長宗我部盛信(盛親三男)‥大阪落城後、高岡城を攻めるが破れ逃亡し、捕らえられて処刑 長宗我部盛定(盛親四男)‥大阪落城後、京都で捕えられ処刑 長宗我部盛澄‥河竹黙阿弥の歌舞伎作品『慶安太平記』によると、長宗我部盛親の側室の子とされています(異説あり) 元親以下の長宗我部一族をざっと羅列しましたが気になる人物がいますね。 生まれは1599年とされ父元親が死んだ際はまだ母の腹の中にいたとされています。 長じて大阪の陣に参戦した康豊は八尾の戦いにて長宗我部隊が破れたのちに城を脱出。 康豊は京都の山科の辺りから宇都宮にいる縁者を頼るつもりで東へ向かいます。 盛親の子等が土佐や京に潜伏するのとは違って東に向かった所にまだ運が残っていたのでしょうね。 信濃にて路銀を得て駿府に入る頃には足立七左衛門(足立は母方の姓)と名乗ります。 駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている際、狂人が斬り込んできますが、この現場に居合わせた康豊は狂人を取り押さえます。 忠利が康豊に由緒を聞くと、土佐の雄元親の息子ということを知り、200石を与えた家臣に取り立てます(これがいつ頃の事だか定かではないのですが長宗我部の一族を召抱える事にお咎めはなかったのでしょうか?また康豊も身分を明かしてしまうのは時期尚早な感じがしますが‥) しかしその後とくに何事もなく過ごしたようで、酒井家が河越に移封になった際に500石に加増され、最終的に1500石の領主にまで加増されたようで、子孫はさらに5000石を賜る重臣となったそうです。 悲運の一族ですが、運があれば生き残れるものですね。
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2008年01月28日
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これだけ有名な戦いですが、未だにはっきりとした場所は判明していないようです。 以下Wikipediaより抜粋より抜粋した記事です。 赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江沿いに数カ所存在し有名なものは二箇所ある。 ■湖北省蒲圻市西南の長江南岸に位置する赤壁山である。ここは実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁」と呼ばれている。 ■北宋の文人蘇軾(蘇東坡)が名作「赤壁の賦」を書いたことで有名な偽の赤壁である。こちらは湖北省黄州市西北の長江北岸の赤鼻山を指し「東坡赤壁」と呼ばれる。 この地は実際の戦場ではなかったのだが、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の作品によって、実際の古戦場以上に有名になってしまった。 この戦いの結果 ■孫権‥豪族の連合政権である国をまとめる ■劉備‥自前の領土を獲得→益州攻略の足がかり ■曹操‥南下政策の停滞 この戦いをもって歴史の流れは大きく変わります。
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