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以前こんな記事を書きました。 その後、資料が見つかり以前より詳細が判明しました。 父の父(祖父)方の方は七代前まで遡れました。 七代前のご先祖様は野口勘兵衛(明和2年(1765)〜文政10年1828))という人物です。 さらに野口勘兵衛さんを遡ると浅野家時代の赤穂藩士であったようです。 苗字だけは判明しているのですが、さほど有名な家柄ではないのかそこから先は今の時点では調べようがありません。 浅野内匠頭の殿中刃傷事件の絡みで離禄し数人で徳島県へ渡った人物の内の1人のようです。 父の母(自分からみれば祖母)方は元々は瀬戸内海にある小島の庄家で遡れば色沙汰で(情けない‥)島流しとなった岡山藩士との事で名前も判明しているのですが、こちらも余り有名な人物ではなくその先はわかりません。 まだ分からない事は多々あるのですが以前に比べれば随分判明しました。
時間があればもっと色々調査してみたいものです。 |
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2009年05月10日
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子供の名前をヒエログリフに変換してみました。 ヒエログリフとは‥
古代エジプトで使われた文字の1種です。聖刻文字、神聖文字とも言われます。 1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンにより解読されました。 この変換でもれなくカルトゥーシュ(王の名前に使われる楕円)仕様となります。
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先日プラレール博に行って来た際に購入した限定貨車です。赤と青の2種類です。 他にも沢山プラレール博限定車両が売っていたのですが、キリがないので購入したのはこれだけにしました。 この貨車は中にトミカを積む事が出来ます。 しかしうちの子供はトミカを載せてカバーをするのが嫌なようで、ただ単にトミカを乗せた状態で走らせるのです。 そうなると当然トミカは貨車から落ち、落ちたらギャーギャー騒ぎます。 はぁ〜‥
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この年は三国志の主役の1人劉備が白帝城にて没します。 劉備は臨終に際して孔明に 「劉禅に才能がなければ君が自ら国政を担うべし」 と言葉を残してます。 この時後事を託した人物は孔明だけではなくもう1人いました。 李厳正方 ?〜234 坂口和澄氏によるとここで李厳を顧命の臣に任命したのは蜀政権の内部の問題としています。 蜀内部には常に荊州閥と益州閥の対立があり、孔明と李厳の両名に後事を託す事で両閥の均衡を図ろうとしたと言うのです。 確かに李厳は軍事に明るく中都護として軍事を統括し永安に駐屯します。 孔明の李厳に対する評価に下記の言があります。 「軍隊を適所に配して少しも滞ることがないのは、正方の性格によるものだ」 ですが李厳はこの両閥の均衡を保たせようとした劉備の期待に応える事ができませんでした。 その詳細またの機会に。 |
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