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島津家久

有名な島津四兄弟の末弟

島津家久 1547〜1587 中務少輔


四兄弟ですが家久のみ母が橋姫(本田親康の娘)であり(他三人は雪窓夫人)他の三人とは異母兄弟となります。

この四兄弟の中では兄義弘と同じく戦上手であり、物凄く早死にが惜しまれる人物です。

こんな家久ですが28歳の時に上洛をしております。
名目は三州(薩摩・大隅・日向)統一の感謝の為、伊勢神宮や愛宕権現に参拝する為です。

この時家久は信長の軍勢を間近に見る機会があり下記のように記しております。

『さて織田の上総殿、大阪の陣から退かれてくるのを心前と一緒に見物した。下京から上京の方へ、馬廻りの衆打ち列ねて、相国寺の宿へ着かれた。さて幟は九本あり、黄永楽という銭の形を幟の紋に付けられていた。上総殿の前に母衣衆二十人、母衣の色はいろいろで、弓箭の覚えのある衆に許されるという。さて馬廻衆は百騎ばかりである。退陣であるにもかかわらず、各々鎧を着ている。また馬面や馬鎧をしたもの、また虎皮を馬に着せたものもあった。また馬衣、馬袋をした馬三頭がいて、これは上総殿の替馬だそうである。上総殿の服装は皮衣で、居眠りをされながら通られた。十七カ国の人数で何万騎いるかわからない』

なかなか詳細に織田軍の事が記載されていて興味深いですね。

またその後、家久は里村紹巴と共に(家久が京都で宿泊していたのは紹巴の弟子の家だった)明智光秀に招かれていて、招かれた茶会でも家久は豪快な話を残しております。

「茶湯の事不知案内」

として白湯を所望するのです。
光秀や他の客には田舎者としてしか映らなかったかもしれませんが家久には必要ない事だったんでしょうね。

そんな家久、その後の戦でも武功を挙げまくります。
大友家を破った耳川の戦いに参加し、龍造寺隆信を討ち取った沖田畷、長宗我部信親、十河存保を討ち取った戸次川では総指揮を執っての鬼神の働き。

ですが秀吉の九州征伐にて家久は居城佐土原城を藤堂高虎に明け渡し降伏。
高虎の主君である羽柴秀長と会見して間もなく他界します(1587年6月5日)。

この死から家久には常に毒殺説がつきまとうのですが(『島津国史』にも同様の記述あり)この人の死には他にも説があります。

【病気説】
家久の死の少し前(5月13日)に福知長通(秀長側近)が島津義弘にあてた書状に‥
「‥中務殿も御同道候、御病中逐って申し上げるの段、如何‥」
とあり病を患っていたとの説。

【島津家による毒殺説】
5月26日付の秀吉の置目に
「(家久が)人質を出し、居城を明け、中納言(秀長)上方へまかり上り、似合いの扶持を受け奉公あるべき由、神妙に思し召し候」
との記載があります。
これは家久が島津家を捨て、秀長の直属の家臣となりたいと願い、秀吉もそれを神妙に思っていたという内容です。これが本当であれば豊臣政権は有能な人物を得た事になり、島津家にとっては裏切りであり、この結果島津家が家久を毒殺したという説。
にわかに信じがたい説ですけどね‥

死因をうかがわせる資料は無く、新たな資料が発見されるまでは謎ですが死因がどれにせよ歴史にとって41歳でこの戦の天才を失う事は痛事です‥

※参考文献:戦国武心伝/学研:歴史街道2009年3月号/PHP文庫:事典にのらない戦国武将死の瞬間/新人物往来社

※2009年5月18日記事改訂

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上杉景虎

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天地人での出番もなくなり多少この人に対するブームは過ぎたのでしょうけど、
記事を作成してみました。

この人この時代の関東が誇る名将北条氏康の七男として1554年に生まれます。
幼名は竹王丸。

そしてこの時代の宿命ではありますが、11〜12歳の頃三国同盟(武田・今川・北条)人質として武田家へ赴く事となるのです。この時の名は武田三郎氏秀(別人説有り)。
しかしこの同盟は1567年に破綻し氏秀は北条家に送り返されます。

北条へ帰ってきてからは北条幻庵の養子となっていましたが、上杉との同盟の際に再び人質として白羽の矢がたち17歳で上杉家へ。

上杉謙信は氏秀を人質ではなく養子として扱い、上杉三郎景虎と名乗らせ姉の娘を娶らせます。

そうして時は過ぎ謙信の死後、御館の乱を迎えるのです。

景勝が春日山城本丸を占領した事で景虎は上杉家の政庁である御館へ本営を移します。
さらに景虎の実兄氏政、武田勝頼が景虎支援の為、越後に出陣。
ここまでは圧倒的に景虎勢の有利な状況です。

しかし北条勢は2ヶ月余り動かず、この北条勢を見て景勝はすかさず武田に和睦を申し入れます。
この申し入れは受け入れられ、武田勢は撤退。
さらに北条勢も武田勢の撤退を受けて本国に撤退してしまいます。

この二大両国の動きで国内の領主達は景勝側に一気に流れます。
勝ち目がないと悟った景虎は嫡子を人質に出し和睦交渉を試みますが、
嫡子は景勝により惨殺されてしますのです‥

そして御館は景勝により完全包囲され焼き討ちされます。
この包囲網を潜り抜けた景虎は鮫ケ丘城に逃げ込みますが、城主堀江胸親は上杉方に寝返ります。
ここにきて万策つきた景虎は本丸において自害。
享年26歳の若き命を散らすのです。

簡単ではありますが天地人では描かれなかったところを少しだけ補足しました。

参考文献:戦国武心伝/学研

※画像は勝福寺に建つ上杉景虎石像です。この時代の人物の銅像にしてはイケメンですな。

朱治君理

孫家三代に仕えていて呉の四姓(朱家は朱桓の一族かもしれませんが‥)のうちの1人なのにイマイチ目立たない人物です。

朱治君理 156〜224


ちなみに家系図は下記の通りです。
朱然は姉の子で養子というのが正式な血縁関係です。
イメージ 1


さてこの朱治ですが、黄蓋や程普などと並び孫堅以来の宿将です。
しかし演義での出番がほぼない為、名前は知られていてもイマイチ目立たず、イマイチ何をしていたのかわかりません‥
という事で主な経歴は‥

188年(朱治22歳)‥孫堅の部下となり長沙等三郡の賊討伐に参加し功を挙げる
191年(朱治25歳)‥黄巾残党の討伐に参加
195年(朱治29歳)‥許貢を破る
196年(朱治30歳)‥孫権を孝廉に推挙
202年(朱治36歳)‥呉郡太守・行扶義将軍に任命される
208年(朱治42歳)‥四方巡警使として赤壁の戦いに参加
222年(朱治56歳)‥異民族討伐などの功が認められヒ陵侯に任じられる
223年(朱治57歳)‥安国将軍に任じられる
224年(朱治58歳)‥死去


経歴だけみると余りパッとしませんがこの人は呉にとって重要な事をしております。
それは袁術の下にいた孫策に対し、袁術から兵を借りて江東に基盤を持ち、機を見て袁術から独立すべきことを進言した事です。

この進言がなければ孫策の台頭も遅れその後の孫家の発展もなかったかもしれないですしね。


その呉南方の異民族対策へと活躍の場を移します。
呉の将軍には呂岱をはじめ何人か異民族対策で南方の地に駐屯する人物がいますが、その任に就いた人物は魏や呉とは余り関係ない場所での任務の為、後年の演義では極端に出番が減ってしまいます。

しょうがないですが残念な話ですよね。

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