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前回の記事に載せていなかった家久の死に関する他の説として伊集院忠棟による暗殺説もあります。 伊集院忠棟は島津好きの人からは嫌われている傾向が強いようですが、人によっては島津を救った人物とする見方もあり評価が極端に分かれている人物ですね。 ちなみに同年同日に毛利両川の吉川元春の嫡男である吉川元長も日向の地で病死しています。 なにか関連が‥って考えすぎですね。 ※関連記事:島津家久
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言わずと知れた信長の正室であり梟雄斉藤道三の娘です。 信長に関わる人物の中ではこの人も謎が多い人物ですね。 まずその名前ですが濃姫とい名前は確かな資料には見られません。 美濃からきた姫なので濃姫というのが一般的な定説となっているようです。 また帰蝶・鷺山殿という呼び方もされますが、これは江戸寛政年間の地誌『美濃国諸旧記』に初めて見える名前だそうです。ちなみに『武功夜話』では胡蝶と記されておりこの時代の女性にはままありますが本名は不明のようです。なので本文は一般的な濃姫という名前で記述を統一します。 さて1547年頃、信長の父信秀はほぼ尾張統一を成しますが、東に今川義元、西に斉藤道三という強大な敵を相手にしなければなりませんでした。 当然の方針としてどちらかと手を結ぶのが得策という事で同盟相手として選んだのが斉藤道三。 家臣の平手政秀を遣わし交渉をさせますがこの時に信長と濃姫の政略結婚の話もあったのでしょう。 『信長公記』にも信長と濃姫の結婚がまとまり、娘が尾張に来たとの記述があります。 しかし不思議な事に結婚後、濃姫の事は確かな資料には殆ど出てきていないそうです。 離縁されたとか死別したとかすらもです。 それでも濃姫のその後に関するヒントとなる事がいくつかあるようです。 ■義龍と折り合いの悪かった道三が、「義龍に美濃を奪われるくらいなら、女婿の信長に美濃を譲りたい」と考えていたという事ですが道三が長良川で討たれた(1556)結果織田斉藤の同盟は瓦解したという点です。道三が討たれる前は同盟関係が成立していたのでこの時はまだ濃姫は健在。 ■1569年の『言継卿記』に斎藤家親族の「信長本妻」の記述がある。 ■1568年の『近江國輿地志』に信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述。 ■『勢州軍記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ織田信忠を養子とし嫡男としたという記述。 ■『織田信雄分限帳』に「安土殿」との記述がありこれが濃姫ではないかとする説。 ■『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」がいてこのどちらかが濃姫であったのではないかとする説。 ■『妙心寺史』には、1583年に信長公夫人主催で一周忌を執り行ったという記述。 歴史上これだけ有名な女性なのに詳細が不明っていうのがまたこの人をミステリアスな雰囲気にしているんでしょうね。 ※参考図書:歴史読本2003年5月号『信長と26人の子供たち』/新人物往来社
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