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高山右近は父友照の影響もあり12歳でキリスト教の洗礼を受けています。 ※画像は高山右近です。 そんな右近の洗礼のきっかけとなる人物が‥ このロレンソ了斎は、キリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラという宣教師を奈良に招いた際にヴィレラの代理として奈良に赴く事となります。 そしてロレンソは理路整然と仏僧を論破するのです。 その論議の審査の為にその場に居合わせたのが右近の父、高山友照。 感心した高山友照は自らの城にロレンソを招きさらに教えを請うのです。 こうした経緯で高山友照は息子高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受ける事になります。 このように高山親子がキリシタンとなるきっかけとなったロレンソ了斎は元々琵琶法師として生計を立てていました。 そんな了斎がキリシタンとなったきっかけは‥ 1551年に訪れた山口の街でたどたどしい日本語を話す男の声が聞こえてきました。 その声の主はかの有名なフランシスコ・ザビエル。 ザビエルの話を聞いていくうちに了斎は話の内容に不思議な魅力を感じるようになっていくのです。 キリスト教についてのさらに深い説明を聞いた了斎はザビエルの手によって洗礼を授けられ、ここにロレンソという洗礼名を受けます。 ザビエル帰国後もロレンソはイエズス会の宣教師たちを助けて働き、1559年に京に入ったロレンソはもう1人の宣教師と共に将軍足利義輝、三好長慶という当時の京都のビック2に直接謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けます。 1569年には織田信長から布教の許可を得てフロイスと共に信長の面前で反キリシタンの論客であった朝山日乗と議論を行い論破します。 ロレンソはその後1587年の伴天連追放令を受けて九州へと移り、1592年に長崎で没しますがその死にフロイスは深く悲しむのです。 一介の琵琶法師から戦国期にここまで各方面に様々な影響を与えたロレンソ了斎。 個人的には無神論者ですがこの功績は凄いものがありますね。 このロレンソ了斎に関しては長崎文献社より出版物があるようなので読んでみようかと思っております。
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戦国人物
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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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言わずと知れた信長の正室であり梟雄斉藤道三の娘です。 信長に関わる人物の中ではこの人も謎が多い人物ですね。 まずその名前ですが濃姫とい名前は確かな資料には見られません。 美濃からきた姫なので濃姫というのが一般的な定説となっているようです。 また帰蝶・鷺山殿という呼び方もされますが、これは江戸寛政年間の地誌『美濃国諸旧記』に初めて見える名前だそうです。ちなみに『武功夜話』では胡蝶と記されておりこの時代の女性にはままありますが本名は不明のようです。なので本文は一般的な濃姫という名前で記述を統一します。 さて1547年頃、信長の父信秀はほぼ尾張統一を成しますが、東に今川義元、西に斉藤道三という強大な敵を相手にしなければなりませんでした。 当然の方針としてどちらかと手を結ぶのが得策という事で同盟相手として選んだのが斉藤道三。 家臣の平手政秀を遣わし交渉をさせますがこの時に信長と濃姫の政略結婚の話もあったのでしょう。 『信長公記』にも信長と濃姫の結婚がまとまり、娘が尾張に来たとの記述があります。 しかし不思議な事に結婚後、濃姫の事は確かな資料には殆ど出てきていないそうです。 離縁されたとか死別したとかすらもです。 それでも濃姫のその後に関するヒントとなる事がいくつかあるようです。 ■義龍と折り合いの悪かった道三が、「義龍に美濃を奪われるくらいなら、女婿の信長に美濃を譲りたい」と考えていたという事ですが道三が長良川で討たれた(1556)結果織田斉藤の同盟は瓦解したという点です。道三が討たれる前は同盟関係が成立していたのでこの時はまだ濃姫は健在。 ■1569年の『言継卿記』に斎藤家親族の「信長本妻」の記述がある。 ■1568年の『近江國輿地志』に信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述。 ■『勢州軍記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ織田信忠を養子とし嫡男としたという記述。 ■『織田信雄分限帳』に「安土殿」との記述がありこれが濃姫ではないかとする説。 ■『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」がいてこのどちらかが濃姫であったのではないかとする説。 ■『妙心寺史』には、1583年に信長公夫人主催で一周忌を執り行ったという記述。 歴史上これだけ有名な女性なのに詳細が不明っていうのがまたこの人をミステリアスな雰囲気にしているんでしょうね。 ※参考図書:歴史読本2003年5月号『信長と26人の子供たち』/新人物往来社
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切腹する前に、妻、5歳の長女、4歳の侍女、3歳の長男、2歳の次男、を刺殺するという悲劇を味合わされた戦国武将。 時に23歳。戦国の習いとはいえこの時どんな心境だったんでしょうね‥ とはいえ自業自得です。 別所氏は守護大名赤松氏の庶流として代々三木城主を努めた家柄。 当時の長治の時代、織田信長の上洛に際して加勢し、中国征伐では先鋒を依頼されるも毛利氏に組して反抗します。 2年に及ぶ籠城戦の末、将兵の助命を条件に一族と共に自刃しますがその時に長治が刺殺したのが先述した家族達。 何故この若い大名は信長に反抗したのでしょうか。 一番有力な説は別所氏が卑賤の身の秀吉を軽視してその指揮下に従うのを嫌がった為と言われています。 (反旗を翻した理由は協調関係にあった毛利氏に応じた為など諸説あり) 時代が読めないのは名族の弱点。 この時若干21歳の長治は時代を読む前に一族をまとめ切れていない状態でした。 これではどうしようもないですね。 こうして長治は秀吉の攻撃を受けます。一時は荒木村重などの離反により撃退するものの、再度に秀吉に包囲されます。この時秀吉が取った策が有名な「三木の干殺し」 22ヶ月もの間、耐えますが結局将兵の助命を条件に長治と弟友之は自刃し果てるのです。 一般的なイメージとしては2年もの間「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めにも屈せず耐えしのいたものの、城兵の命と引替えに切腹したという義将のような感じなんですかね? 個人的にはただ先見の明がなかった古い思考(時代)の人物というイメージです‥
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木村重成の事を以前記事にしました。 文中で少しだけ触れたのですがいかにも木村重成らしい真田幸村との関わりのエピソードですがあります。 1614年12月13日の事。 徳川方が自分の持ち場に攻め寄せてきたのを櫓で見た木村重成は真田幸村に会いに行き話しかけます。 『今自分の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗は六紋銭でご一族のようです。そこでお尋ねしたいのですが、事のほか若い2人の武者が先頭に立ち、弓や鉄砲をものともせず攻め寄せてきてます。見覚えのある人物かどうか見て頂きたい。』 これに対して幸村は、 「見るまでもなく伊豆守(信之)の隊である。そしてその先頭にいる二人は一人を河内守といい18歳で、もう一人は内記といい17歳であり、二人とも自分の甥である。その二人をどうか身分のある人物に討ち取ってもらえないだろうか。そうすれば十余歳で木村重成殿の持ち場で討ち死にしたという事が後世に伝わり、それは一族の名誉でとなる」 しかし重成は、 『いやいや、一族が別れての戦。相手を討たなかったからといって咎めはないでしょう。和睦となった際はめでたく対面して下さい。心中はお察し致します』 こう言うと木村重成は自分の士卒に二人の若武者を弓、鉄砲で撃ってはならぬと命じるのです。 木村重成らしい清々しさを感じると同時に、戦場での経験の無さ、甘さを感じさせるエピソードでもあります。戦場で何を悠長な事を言っているんだと。 それでもこの人物が大阪の役で見せた活躍や振る舞いからすればこのエピソードで評価が下がる事はないですけどね。 ※参考図書:武将たちの四季/岩原信守/元就出版社
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有名な島津四兄弟の末弟 四兄弟ですが家久のみ母が橋姫(本田親康の娘)であり(他三人は雪窓夫人)他の三人とは異母兄弟となります。 この四兄弟の中では兄義弘と同じく戦上手であり、物凄く早死にが惜しまれる人物です。 こんな家久ですが28歳の時に上洛をしております。 名目は三州(薩摩・大隅・日向)統一の感謝の為、伊勢神宮や愛宕権現に参拝する為です。 この時家久は信長の軍勢を間近に見る機会があり下記のように記しております。 『さて織田の上総殿、大阪の陣から退かれてくるのを心前と一緒に見物した。下京から上京の方へ、馬廻りの衆打ち列ねて、相国寺の宿へ着かれた。さて幟は九本あり、黄永楽という銭の形を幟の紋に付けられていた。上総殿の前に母衣衆二十人、母衣の色はいろいろで、弓箭の覚えのある衆に許されるという。さて馬廻衆は百騎ばかりである。退陣であるにもかかわらず、各々鎧を着ている。また馬面や馬鎧をしたもの、また虎皮を馬に着せたものもあった。また馬衣、馬袋をした馬三頭がいて、これは上総殿の替馬だそうである。上総殿の服装は皮衣で、居眠りをされながら通られた。十七カ国の人数で何万騎いるかわからない』 なかなか詳細に織田軍の事が記載されていて興味深いですね。 またその後、家久は里村紹巴と共に(家久が京都で宿泊していたのは紹巴の弟子の家だった)明智光秀に招かれていて、招かれた茶会でも家久は豪快な話を残しております。 「茶湯の事不知案内」 として白湯を所望するのです。 光秀や他の客には田舎者としてしか映らなかったかもしれませんが家久には必要ない事だったんでしょうね。 そんな家久、その後の戦でも武功を挙げまくります。 大友家を破った耳川の戦いに参加し、龍造寺隆信を討ち取った沖田畷、長宗我部信親、十河存保を討ち取った戸次川では総指揮を執っての鬼神の働き。 ですが秀吉の九州征伐にて家久は居城佐土原城を藤堂高虎に明け渡し降伏。 高虎の主君である羽柴秀長と会見して間もなく他界します(1587年6月5日)。 この死から家久には常に毒殺説がつきまとうのですが(『島津国史』にも同様の記述あり)この人の死には他にも説があります。 【病気説】 家久の死の少し前(5月13日)に福知長通(秀長側近)が島津義弘にあてた書状に‥ 「‥中務殿も御同道候、御病中逐って申し上げるの段、如何‥」 とあり病を患っていたとの説。 【島津家による毒殺説】 5月26日付の秀吉の置目に 「(家久が)人質を出し、居城を明け、中納言(秀長)上方へまかり上り、似合いの扶持を受け奉公あるべき由、神妙に思し召し候」 との記載があります。 これは家久が島津家を捨て、秀長の直属の家臣となりたいと願い、秀吉もそれを神妙に思っていたという内容です。これが本当であれば豊臣政権は有能な人物を得た事になり、島津家にとっては裏切りであり、この結果島津家が家久を毒殺したという説。 にわかに信じがたい説ですけどね‥ 死因をうかがわせる資料は無く、新たな資料が発見されるまでは謎ですが死因がどれにせよ歴史にとって41歳でこの戦の天才を失う事は痛事です‥ ※参考文献:戦国武心伝/学研:歴史街道2009年3月号/PHP文庫:事典にのらない戦国武将死の瞬間/新人物往来社 ※2009年5月18日記事改訂
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