戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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豊臣秀吉

今まで戦国時代に関して色々な事を書いてきましたが、織田信長とか武田信玄とかの一級超メジャー武将については殆ど書いてません。決して興味がないわけではないですよ!
という事で今回は‥

豊臣秀吉

よく信長、秀吉、家康の3人を天下人なんていいますが、私的見解では信長は省かれます。だって支配していない地域として四国、九州、関東、東北‥まだまだじゃないですか。なので天下人といえば秀吉と家康しかないのです。どちらが好きか?秀吉です。理由は人間的魅力を感じるので。
現代に(今は余り使われませんが)「今太閤」なんて言葉ものこしてます。秀吉のように目覚しい出世をした人物の事です。伊藤博文なんかも百姓から総理大臣にまでなっているので明治時代には今太閤なんて言われました。
さて、あまりこうゆう考え方をした事がないのですが秀吉という人物に点数をつけるとしたら何点なんだろう‥‥?
ズバリ  50点(あくまでも私的見解です)
理由は決して自分だけではないはずだと思っているのですが、天正19年秀吉が太閤を称した55歳を境にそれ以前の秀吉と以後の2人の秀吉がいるからです。
信長の草履取りの頃の逸話、墨俣一夜城、金ヶ崎撤退戦、中国攻め、中国大返し、山崎合戦、賤ヶ岳合戦、大阪城、小牧長久手合戦、関白就任、聚楽第、北野大茶会、北条征伐などなど色々あるがここまでは100点!!最高の戦国武将でありいう事ナシ!!
ですがやはり後がマズイ。朝鮮出兵、秀頼出産による秀次処刑、千利休切腹、などなど死ぬまでの僅か7年があまりにも天下人として私的見解ではダメすぎるのである。55年かけてやってきた大事業をこのわずかな期間で取り返しのつかない事態まで転落させてしまう。0点。
なので足して2で割ると50点。
点数をつけるとしたらこうなってしまうのですが、でもやっぱり生い立ちを考えると天下人になったって凄い事ですよね。

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福島正則

『賤ヶ岳七本槍』筆頭。
伊予今治12万石の大名へ。
尾張清洲24万石の大名へ。
『関ヶ原の合戦』東軍先鋒。
関ヶ原後、安芸広島・備後鞆2州49万8千石の広島城主へ。
輝かしい経歴から一転、幕府にとっての要注意人物へ‥

福島正則 1561〜1624

その後は無断修築(実際正則は2ヶ月前から修復願いを出してましたけど‥)により信州川中島4万5千石に減封。
そして63歳で病没。

人生のグラフで言えば綺麗な山型といった感じでしょうかね。

それにしてもなんだかこの人物の人生は悲哀を感じさせます‥
秀吉に取り立てられ、その存在感の強さにより上手く家康に使われてしまった「不器用であり誠実である生き方」がそう感じさせるのかもしれません。

(人と人との関わりとしての)政治的な感覚は他の大名に比べて弱かったと思います。
弱かったというよりダメな部類に入るでしょうかね。
(ちなみに行政面ではなかなかの手腕を発揮してますよ)

そんな福島正則ですが、非常に人想いではなかったかというエピソードがあります。
宇喜多秀家との話です。

関ヶ原後の話ですが、上方の酒を江戸の福島屋敷に海路で運ぶ途中強風で航路がそれ船は八丈島へ辿り着きます。
八丈島にはかつての五大老宇喜田秀家が流刑されてきておりました。
島の住人からその話を聞いた福島正則の家臣はそれを不憫に思い、酒樽を2つ秀家の為においていくのです。
この事を家臣は福島家の江戸屋敷にて(恐る恐る)報告すると正則はこの家臣の行動を褒めるのです。
その後、八丈島付近を通る際、正則は秀家に品物を届けるようになったのです。
この時の正則の言葉として
「何もせずに帰ったら福島家の面目が潰れる‥云々‥」
という言葉が残されており、いかにも正則らしい面子にこだわった感がありますが、その言葉の裏には共に秀吉に大恩を受けた者同士として何かしてあげたかったという想いがあったように思います。


そして三成憎しという行動に代表されるように直情型であり、家康の側近達には余り好かれていなかったようですが、実際はなかなかの好人物だったのではないかと思います。
あれだけ仕える人物を変えた可児才蔵はその生涯を福島家で終えてますし、広島城明け渡しの際、家臣達は籠城して徳川に抗戦しようとまで言ってますから。

惜しむらくはもう少し政治的に動ければ違ったのかなぁと。
でもそうなると福島正則という人物の魅力は減ってしまうのかもしれませんね。

※2009年5月19日改訂

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毛利秀元

元就の四男、穂井田元清の子。1592年に毛利輝元の養子となる。文禄・慶長の役は輝元に代わって毛利軍の指揮をとる。
95年に輝元に実子秀就が誕生したために別家が与えられ周防、長門の二国の主に移る。
関ヶ原においても毛利主力を率いて家康の背後の南宮山に布陣するが、動けずに終わる。
戦後、輝元の領地の内、長門豊浦・厚狭36000石を与えられる。1650年江戸にて死去。
これが一般的な毛利秀元の紹介。関ヶ原では、吉川広家にさえぎられて一戦も交えずに本国退去みたいな印象でイマイチパッとしません。でもこの人、実は優秀な武将ですよ。
跡継ぎのない輝元に当時5歳の宮松丸(秀元の幼名)を跡継ぎに推したのは毛利両川の名将吉川元春と小早川隆景です。養子になった後、大阪へ人質に出され、秀吉も「この子、尋常の人にあらず」と関心したといいます。
時は移り関ヶ原前、大阪で家康討伐の企てに参加する事を決めた輝元を秀元は諌めています。
「軽々しく行動する事は反対である。この企ては、奉行らによるもの。その連中に味方するのはやめなされ」と。しかし輝元は聞かないのです。そこで秀元は、
「それであれば、秀頼公を擁して御出馬を願うことが大事な条件である。関東にいる上方の諸将達も秀頼公には弓を引く事はできないはず」
まさに慧眼!!!!この意見を輝元はことごとく聞いていない。もし輝元ではなく秀元が大阪に入場していたら、という歴史のifを考えると面白い。こうゆう話があると、家康の毛利家に対する戦後処理も輝元ではなく秀元が替って指揮をとっていたらもっとましな結果になったんじゃないのか?と思ってしまう。
戦後処理の前にも秀元のすぐれた戦略眼を垣間見せる話があります。吉川広家と家康との口約束を信じていない秀元は輝元に大阪城内部の戦備をまとめる事を説くのです。それでこそ、その約束が有効化されると睨んだからです。大阪を出てしまった以上は、宇喜多家の岡山城を借り一戦を覚悟すれば家康の意図も読め、口約束もしっかりしたものにさせる事ができる。たとえ負けても毛利の名は後世に残る。とにかく、一戦覚悟の準備をして、本領安堵を約束してもらうではなく、約束をさせるのであると輝元に説くのです。先を見る目、人を見る力を持っていればこその意見。
だが、坊ちゃん大名輝元はいずれの策も取る事はなく結果は周知のとうり領地大削減。
戦後強攻策を取った島津家をみればどちらの道がその家にとって正しかったかは一目瞭然です。
惜しむらくは秀元にそれらの策を強行して行うだけの年輪が足りなかった事だと思います(関ヶ原参戦は秀元21歳の時ですから)

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宇喜多秀家

宇喜多秀家が関ヶ原の戦いに副将格として、参加していることは周知の事実ですが、どのような経緯で挙兵したのかはあまり詳しく取り上げてこられませんでした。
だいたいどの本読んでも、「豊臣家との誼から‥」みたいな感じ。
ところが「梵舜日記」という書物にあまり語られていない宇喜多秀家挙兵の様子が記してあるのです。
その書物よると、誰と連携することもなく、宇喜多秀家は豪姫を伴い、豊国社(秀吉を祭った神社)で打倒家康の必勝祈願を込めた出陣式を行った。とあるのです。
家康は五大老の前田を屈させ、石田三成を蟄居させ、上杉討伐へ向かう。
この状況は同じく五大老である宇喜多秀家から見ても悶々としたものがあったと思います。お家問題にも以前口を出されているし、必ず宇喜多家にも再度火の粉が降りかかるのは必定。
そしてなにより、これ以上家康をのさばらせておくことは大恩ある豊臣政権の安泰には繋がらないと考えての挙兵であったと思います。
また自分しか残っていないという責務の気持ちもあったと思います。そこに別で挙兵した石田三成より協力して家康に当たろうと申し入れがくるのです。
家康に対してこの時期公然と立ち向かったのは上杉家の上杉景勝、直江兼続、佐和山の石田三成だけではなく、そこには、もっとも豊臣家に大恩を感じていた、宇喜多秀家もいたのです。

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石田三成

突然ですが石田三成は好きですか?個人的にけっこう好きなんです。
この人悪く言われ続けてきてますよねぇ。徳川政権下でも太閤人気は根強かったみたいですから、悪人になるのも当然ですがひどい話ですよ。理屈上では家康の方が謀反人ですから。
器量のある人だと思います。勝算があったからこそ家康にも挑んだわけですし、人格がどうのこうのいわれますが、そんなことは負けた事とは余り関係ないと思っています。でなければ大谷吉継やら、島左近やら三成の人に惹かれるわけもないですから。ただ惜しむらくは戦う相手が250万石の大老でかたや19.4万石の大名ですからその差がはげしすぎたことだと思います。それでも互角の戦いをしたのは三成の構想力、組織力、企画力、統制力などが、その差を埋める位優れていたのだと思います。これは歴史評論家の鈴木眞哉さんという方も指摘されていました。もう少し立場とかがあったら全然違ったと思いますよ。関ヶ原も首謀者にされていますが、前田利家を担ぎ、毛利輝元を担いで自分を引いた所から見ていたと思います。石田憎しは完全に家康の作戦勝です。まぁかなり贔屓目で三成を見てはいますけど私的なので‥
天下を治める器ではないのも感じるんですけどね。でも仮に家康を破っていたとするとどんな政治をしていたのかは興味のあるところです。
負けはしましたが関ヶ原が三成の名前を後世に残したと思います。他の五奉行との知名度は天地の差で違いますから。
本人は斬首されていますが子女6人は全員生き残っているのもなんか不思議です。そのうちの一人は100歳を越えてますし。娘の血が徳川の家に入っているのもなんか歴史の不思議を感じます。
学研M文庫の「石田三成」を読み終えたのでちょっと思った事を書いてみました。また今度もう少し違う角度から見て三成については思った事を書いてみます。

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