戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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上杉景虎

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天地人での出番もなくなり多少この人に対するブームは過ぎたのでしょうけど、
記事を作成してみました。

この人この時代の関東が誇る名将北条氏康の七男として1554年に生まれます。
幼名は竹王丸。

そしてこの時代の宿命ではありますが、11〜12歳の頃三国同盟(武田・今川・北条)人質として武田家へ赴く事となるのです。この時の名は武田三郎氏秀(別人説有り)。
しかしこの同盟は1567年に破綻し氏秀は北条家に送り返されます。

北条へ帰ってきてからは北条幻庵の養子となっていましたが、上杉との同盟の際に再び人質として白羽の矢がたち17歳で上杉家へ。

上杉謙信は氏秀を人質ではなく養子として扱い、上杉三郎景虎と名乗らせ姉の娘を娶らせます。

そうして時は過ぎ謙信の死後、御館の乱を迎えるのです。

景勝が春日山城本丸を占領した事で景虎は上杉家の政庁である御館へ本営を移します。
さらに景虎の実兄氏政、武田勝頼が景虎支援の為、越後に出陣。
ここまでは圧倒的に景虎勢の有利な状況です。

しかし北条勢は2ヶ月余り動かず、この北条勢を見て景勝はすかさず武田に和睦を申し入れます。
この申し入れは受け入れられ、武田勢は撤退。
さらに北条勢も武田勢の撤退を受けて本国に撤退してしまいます。

この二大両国の動きで国内の領主達は景勝側に一気に流れます。
勝ち目がないと悟った景虎は嫡子を人質に出し和睦交渉を試みますが、
嫡子は景勝により惨殺されてしますのです‥

そして御館は景勝により完全包囲され焼き討ちされます。
この包囲網を潜り抜けた景虎は鮫ケ丘城に逃げ込みますが、城主堀江胸親は上杉方に寝返ります。
ここにきて万策つきた景虎は本丸において自害。
享年26歳の若き命を散らすのです。

簡単ではありますが天地人では描かれなかったところを少しだけ補足しました。

参考文献:戦国武心伝/学研

※画像は勝福寺に建つ上杉景虎石像です。この時代の人物の銅像にしてはイケメンですな。

真田信綱

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先日の記事クロコダイルさんから頂いたコメントに真田兄弟の事が書かれておりました。

真田一族は信繁(幸村)を筆頭に昌幸などは有名ですが信綱、昌輝の兄弟はさほどクローズアップされる機会がないような気がします。

真田 信綱  1537〜1575 源太左衛門尉

オヤジは謀将と謳われた真田幸隆です。
弟には家康も恐れた天才昌幸がおります。
そして甥っ子には幸村。

そんな凄いオヤジと弟と甥っ子を持つ信綱なので影が若干薄いのはしょうがないのですが、この人物もなかなかのものです。
武田二十四将の一人ですから凡将でないのは確かですが資料が相当少ないようで‥

戦歴としては、
1561年に第4次川中島の戦いに参加。

1566年の駿河攻めでは弟昌輝とともに先鋒を努め今川軍を壊滅させています。
この時信綱は200騎を率いていたとされ(『甲陽軍艦』なので怪しいですが)この兵力は武田軍の中でも上位にあったようです。

その後の三増峠の戦いでも昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げていて大切な戦には必ず従軍していて当然三方ヶ原の戦いにも先陣7組の6番目で参戦。
家康を蹴散らします。

1574年にオヤジが病没すると信綱は真田家を束ねる立場となります。

これからさらに真田家を盛り上げて行こうとした矢先に勃発するのが長篠の戦い。

1574年4月、勝頼からの出陣命令が下ります。
真田家当主として出陣し長篠城を攻めるも落とす事が出来ずそうこうしているうちに信長、家康が設楽原に到着。
この時点で山県昌景らとともの信綱は撤退を主張しますが‥
戦上手は流れを見る目もたしかなものです。
この時に勝頼がこれを受け入れていたら武田家はもう少し延命出来たでしょうね。

ですが勝頼には受け入れられずに結局馬場信春らと共に右翼を担当する事となります。
不利を知りながらも信綱は馬場隊とともに織田左翼を圧倒し馬防柵を突破します。
ですが全線に渡り犠牲者が増えた事でようやく勝頼は退却を命じます。
この戦いで信綱は気合の入ったところを見せ16もの首級を挙げております。
(弟の昌輝が挙げた首が16との説もあり)

ここから織田、徳川連合軍は武田軍の追撃をはじめます。
信綱・昌輝兄弟は勝頼を出来るだけ逃がすべく奮戦するもここにあえなく戦死してしまうのです。
39歳での戦死なので親や弟、甥っ子に比べて余りにも若いです。
もう少し長生きしてたらまた違う人生だったんでしょうね。
生まれた時代が少しだけ違えばといったところですかね‥

信綱を討ったのは徳川家の渡辺政綱だという事ですが、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の白河兄弟が甲斐に持ち帰ったとされ、この「血染めの陣羽織」は、上田市の信綱寺に現在も収蔵されています。
(首は敵に持ち去られたものの、胴以下は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が小県郡真田郷へ持ち帰り、そのまま埋葬したとの説もあります)

参考:戦国武心伝/学研

堀田氏の知り合い

『センゴク外伝 桶狭間戦記 2巻』に出てくる堀田右馬太夫正貞(↓この人)、俗に言う『堀田氏』ですが、Wikiを参照すると下記のような説明となります。
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堀田氏は「寛政重修諸家譜」において自らの出自を紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとしていますが本来堀田氏は尾張国津島神社社家の紀姓堀田氏の流れと見るべきであり、津島神社に残る神官の堀田氏系図こそが、本来の彼らの出自だとの事。

この津島神社社家の堀田氏のうち、南北朝期に活動した堀田正泰の子孫の一部が武士化して津島を基盤に発展し織田氏、豊臣氏に仕え歴史の表舞台に登場していきます。これが近世大名の堀田氏。

なお、津島神社社家を代々務めた堀田氏は「右馬太夫家」といわれ、武士化した一族とは別に津島で発展し、この系統から派生した「番頭太夫家」は近世に商家として発展。

これが桶狭間戦記にも登場する堀田右馬太夫正貞となります。


〜Wikiではこの後、大名としての堀田氏の説明になりますので省略〜


そして最後に記載されている一文に、
福島正則に仕え尾張に残った一族は、後に津島に帰郷し更に酒造業を営んで財をなした。
その邸宅は「堀田家住宅」として国の重要文化財に指定されている。


この福島正則に仕えた一族の子孫にあたる人が前職の同僚にいたのですが(現在はご家族で神奈川県にお住まいです)歴史に興味もなく、当然堀田家住宅の事に関しても特に興味はなし‥
普通に、「倉の中に徳川家康の書とかあったよ〜」って言ってました‥

ちなみに当人は画像にある堀田右馬太夫正貞とは似ても似つかない綺麗な女性の方です。

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■元親の子供
長宗我部信親(元親長男)‥戸次川の戦いにおいて22歳にて戦死
香川親和(元親次男)‥21歳にて病死(異説あり)
津野親忠(元親三男)‥29歳で盛親により殺害される
長宗我部盛親(元親四男)‥1615年六条河原で処刑
長宗我部右近大夫(元親五男)‥加藤清正に仕えるも大坂の陣で兄盛親に連座して切腹を言い渡される
長宗我部康豊(元親六男)‥大阪後酒井家に仕える

■盛親の子供
長宗我部盛恒(盛親長男)‥大阪落城後、京都で捕えられ処刑
長宗我部盛高(盛親次男)‥大阪落城後、土佐で捕えられ処刑
長宗我部盛信(盛親三男)‥大阪落城後、高岡城を攻めるが破れ逃亡し、捕らえられて処刑
長宗我部盛定(盛親四男)‥大阪落城後、京都で捕えられ処刑
長宗我部盛澄‥河竹黙阿弥の歌舞伎作品『慶安太平記』によると、長宗我部盛親の側室の子とされています(異説あり)

元親以下の長宗我部一族をざっと羅列しましたが気になる人物がいますね。

長宗我部康豊 1599〜?


生まれは1599年とされ父元親が死んだ際はまだ母の腹の中にいたとされています。
長じて大阪の陣に参戦した康豊は八尾の戦いにて長宗我部隊が破れたのちに城を脱出。
康豊は京都の山科の辺りから宇都宮にいる縁者を頼るつもりで東へ向かいます。
盛親の子等が土佐や京に潜伏するのとは違って東に向かった所にまだ運が残っていたのでしょうね。

信濃にて路銀を得て駿府に入る頃には足立七左衛門(足立は母方の姓)と名乗ります。

駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている際、狂人が斬り込んできますが、この現場に居合わせた康豊は狂人を取り押さえます。
忠利が康豊に由緒を聞くと、土佐の雄元親の息子ということを知り、200石を与えた家臣に取り立てます(これがいつ頃の事だか定かではないのですが長宗我部の一族を召抱える事にお咎めはなかったのでしょうか?また康豊も身分を明かしてしまうのは時期尚早な感じがしますが‥)

しかしその後とくに何事もなく過ごしたようで、酒井家が河越に移封になった際に500石に加増され、最終的に1500石の領主にまで加増されたようで、子孫はさらに5000石を賜る重臣となったそうです。

悲運の一族ですが、運があれば生き残れるものですね。

丹羽長秀

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重臣でありながらイマイチ目立たない人物ですね。

丹羽長秀 1535年10月16日〜1585年5月15日


丹羽長秀の話で有名なのは織田家の柴田・丹羽の双璧といわれることから、木下姓だった秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請したという話や、「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退(の)き佐久間」なんて言われているほど(米は生活に欠かせないとい事から)優れた人物なんですけどね。

京都御馬揃(1581年)においても、一番に入場するという厚遇を与えられていますし、安土城の普請奉行などを務めるなどという事もしております。

ですが軍事面においては鬼五郎左と呼ばれたほどの猛将でありながら秀吉、勝家、光秀らのように軍団を率いる事もなく、織田信孝の四国征伐軍の副将を命じられています。
こうゆう差があった事が重臣でありながら長秀がパッとしない原因なんでしょうね。

本能寺の変が起こり、長秀は信孝を補佐し羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討ちます。
秀吉の下に参じているものの京都に一番近い距離にいながらここでの決断の遅さが長秀という人物の限界だったんでしょうね‥

その後の清洲会議では秀吉を支持。

1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に越前・加賀二郡を与えられ、約123万石の大大名となります。
ですがここが丹羽長秀の人生のピーク‥
この後すぐに胃癌のために死去しますが、ここでも有名な話を長秀は残しています(諸説あり)

織田氏をないがしろにする秀吉のふるまいを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺し、その際自ら取り出した内臓の病巣の部分を秀吉に送りつける。

物凄い根暗な仕返しに感じますが、これは、
■長秀は妻は織田信広の娘であり、嫡男の長重も信長の四女を娶っていて織田家との姻戚関係が強い。
(他の家臣には見られない事です)
■長秀は信長から「長」の字の偏諱を受けている。
■信長曰く「長秀は友であり、兄弟である」
などという理由からであります。

もっと評価されてもいい人物だと思うのですが長秀という人物は大樹があってこその人物だったのでしょうね‥

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