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大阪の陣に参戦した前田利常の家臣平野弥次右衛門の従者に五右衛門という人物がいました。 その五右衛門という人物、主人の楯になり、真田丸にて18発もの銃弾を全身に浴びるのです。 ですが、 「これしきかすり傷でござるわ」 と笑い捨てます。 当時に鉄砲の性能や威力では殺傷能力も距離があれば違うのでしょうが、この五右衛門の剛気を称賛 した真田丸の兵達は、 「名を聞かせ給え」 と五右衛門に声をかけます。 これに困ったのは五右衛門。 なぜならば名乗る姓を許されていなかったからです。 これを見た主人の平野弥次右衛門は 「我が姓をつかわす」 と。 これで五右衛門は胸を張り、大声で 「われは平野弥次右衛門が下人、五右衛門というものであるが、これまで御供したる褒美として、たった今、氏を賜って平野五右衛門となり申した」 と答えます。 すると、真田丸から、祝福の拍手が湧き上がりました。 こんな時代に心温まるような、なんだかいい話じゃないですか? 参考図書:「大阪の陣 名将列伝/学研M文庫」
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戦国人物
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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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基本的に有名な人物ではありません。 この人物は吉川広家の家臣です。 この人物が歴史に名前を残している理由は‥ 広家臨終の際に多数の家臣が殉死を願い出ます。 ですが元来殉死という風習を好まなかった広家はこれをことごとく禁じます。 ただ一人森脇作右衛門という人物を除いては‥ 遡る事25年、1600年の関ヶ原の戦後処理での事。 最後まで不戦を貫いた広家にその功績として、家康は西軍総大将である毛利輝元の領地を没収し、 広家に輝元の領地のうちの2カ国を与える旨を通達してきます。 ですが広家は自分の事よりも毛利本家を存続させる事を訴えます。 この時の広家はある覚悟を秘めていました。 『この要望が受け入れられない際は自害』 という覚悟です。 そしてその際の介錯役を命じたのが腹心である森脇作右衛門だったのです。 森脇作右衛門は介錯の役目を引き受ける代わりに条件として広家に願い出たのが、 広家に殉じる事 でした。 それから25年後、森脇作右衛門は許された人物としてただ1人広家に殉じます。 殉死という言葉を見るといつも思うのですが、いくら現代と価値観が違うとはいえ、
自分の命を絶つほどに主に惚れ込むというのは凄い事ですよね‥ |
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最近甲府やら長野やらと武田氏に関係した所に行く事が多く、武田氏関係の本をよく読むようになりました。 以前「武田二十四将の最後」という記事を作り全員を紹介しようと思っていたのですが中途半端で終わっていたので、少し続きを。 今回は 武田四名臣としても有名な人物ですね。 元々は教来石(きょらいいし)氏を名乗っていますが、信玄の父信虎時代に馬場氏の名跡を継いで、 馬場民部少輔を称し、後に信玄より 「鬼美濃と呼ばれた原美濃守虎胤の武名にあやかるように」 という事で美濃守の官途を与えたとの事。 有名な人物だけあって様々なエピソードや言葉が残っています。 武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加し、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったということから「不死身の馬場美濃」「不死身の鬼美濃」と評されている。 ※参考文献「戦国武心伝/学研」
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「信長の子供達」という記事を作りましたが、娘編です。 徳姫‥‥‥‥‥徳川信康室 1559〜1636 冬姫‥‥‥‥‥蒲生氏郷室 1558?〜1641 永姫・玉泉院‥・前田利長室 1574〜1623 報恩院‥‥‥‥丹羽長重室 1574〜1653 三の丸殿‥‥‥豊臣秀吉室 ?〜1603 秀子‥‥‥‥‥筒井定次室 ?〜1632 於振‥‥‥‥‥水野忠胤・佐治一成室 ?〜1643 鶴‥‥‥‥‥‥中川秀政室 ?〜? ?‥‥‥‥‥‥万里小路充房室 ?〜1600 ?‥‥‥‥‥‥徳大寺実久室 ?〜1608 他にも数人いるとされていますがはっきりした人物を記載してみました。 断絶した家もありますが信長の子孫は系図が残ってないだけで現代でも結構沢山いるんでしょうね。 ※参考文献
歴史読本2003年5月号/新人物往来社 |



