戦国人物
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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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有名な肖像画ですよね。このなんともいえない情けない表情‥ 他の戦国大名達の肖像画は皆りりしい顔をしているのになんでこんな表情なんでしょうね‥ 肖像画って基本的に絵師を目の前にして描かれるものなのでしょうけどこれは余りにも‥ きっと政治的なことや戦の事とは別な事を考えていたに違いない!! いいこともしているんですけどね‥ 例えば、関ヶ原後、秀秋は荒廃していた岡山城を改築し、以前の2倍の外堀を20日間で完成させたり、検地の実施し、寺社のの復興、農地の整備などと城下を急速に近代化させたりなど(ほぼ家臣の提案実行によるものではないかと思いますが‥) ですがそれ以上にこの人物は情けない所が目立ち、またそのように描かれてきてしまっているので後世の評判もよくないのでしょう。 小早川秀秋が好きな方スミマセン‥
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父は葛山友綱と言われています(諸説あり。御宿監物・葛山信貞など) 今川氏・武田氏・北条氏と主君を転々と変え、結城秀康に一万石という高禄で召抱えらるが、秀康の子忠直と反目し、浪人して大坂城に入り、夏の陣で討ち死‥どうして有名なんでしょうね‥ 勘兵衛は松平忠直の領国越前を賜る約束で大阪に入城しますが、大阪に入るまでさしたる武勲もなく大阪でも常にどこかの隊に合流していたようです。 ですが越前拝領の噂を聞いた松平忠直は政友の首に懸賞金を懸けるほど激怒したそうです(逸話の疑いもありますがこれが勘兵衛の名前を後世に残したのでしょうね‥)。 冬の陣では真田幸村隊に属して真田丸に布陣してました。 ここで因縁深い松平勢と戦い松平勢に大きな損害を与えます。 きっと溜飲の下る思いだったのでしょう!! 勘兵衛は「冬の陣」にて大野治房の指揮下にて岡山口に陣取り奮戦しますがここで夢と共に討ち死にをとげています‥
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多少誇張している部分もありますが吉川広家の関ヶ原の戦いです。 午前11:00 三成は狼煙の用意を命じた。 この狼煙で松尾山の小早川秀秋と、南宮山の毛利秀元・吉川広家らが総攻撃に移る手筈である。 「狼煙を確認しました。出陣の采配を!!」 『動くことまかりならぬ。秀元殿の兵にも道を開けるな!!』 毛利氏一族の大黒柱的な存在の吉川広家はこれを制した。 数ヶ月前‥ 広家は家康からの会津遠征の出兵要請に応えるため出雲を7月6日に出馬。13日播磨において安国寺恵瓊が派遣してきた使者を出迎え14日に大阪に到着。ところが安国寺恵瓊はすでに12日近江佐和山で石田三成・増田盛長・大谷吉継らと密議し輝元をかつぎ出す事を策し、三奉行が連署し、輝元に大阪入城を要請する書状を発していた。その2日後の14日夜広家は恵瓊と激論を交わした‥ ■恵瓊「内府(家康)が会津へ向かったことは不法である。景勝殿に落ち度はない。皆で相談し内府を止めたが関東へ出馬した!!このような政治では諸大名は安心出来ない。秀頼公の為にも先が思いやられる。この為石田治部、大谷刑部らが、会津が堅固な内に上方にて戦を起こすべきかどうかを思案していた所、増田・長束も同意した。そこで輝元公にも、片時も早く御上りするよう申した次第である」 ■広家『日本を二分するほどの戦争を我等の考えで判断は出来ない。貴僧も身分をわきまえよ。太閤がまだ存命の時起請文を交わして公儀の為の協力を仰せられた。だが、戦乱の兆しがあらわれ、そのうえ昨年内府と四大老・五奉行が不和ななった時も輝元公と内府は御和睦して兄弟の契りを結ばれた。内府は太閤と戦ってもひけを取らず、今は関東八州の大領主、しかも内府に心を寄せる大名は多い。そもそも元就公が天下を望んではならぬと遺言されていたと父元春から聞かされている。万一輝元公が天下を手にされても権力を振るうのは石田らの奉行である。そうなっては内府へ帰服するよりも聞こえが悪い。貴僧の思案が大切である』 ■恵瓊「‥いや、ただちに大阪城西ノ丸より内府の留守居を追い出し、毛利の人員を入れるべきである!!」 ■広家『輝元公の下知を聞かずにそのような事はできぬ』 ■恵瓊「輝元公も内々でこの事を承知しており、大阪木津の屋敷に福原・堅田を残されたのもこの為である」 ■広家『そのような事は聞いていない!!』 ■恵瓊「貴殿がそのような考えであってはこの戦は成り立たぬ。そうなれば私が腹を切らねばならぬ‥」 ■広家『たとえ貴僧が腹を切ろうが、輝元公の身の上には替え難い!!』 2人の主張はもの別れに終わります。 かねてよりとは恵瓊は折り合いが悪く、恵瓊は石田三成や増田盛長などと懇意にしていて、これに対し広家は黒田長政や福島正則などと親しい間柄でした。豊臣家における武将派と奉行派の対立の縮図が毛利家にもあったのです。 そこで広家は、広島に椙杜元縁を派遣し、同日14日付で榊原康政に自筆の書をしたためた。 石田・大谷らの企てを聞いて驚いた次第。ことに安国寺の言は全くの偽りで、輝元の知らぬ事であります。早速広島に使者をつかわします。貴殿には追伸申し上げるので、なにとぞこのむねを含み置きくださいますよう
間もなく椙杜元縁が海上で輝元と入れ違いになったと戻ってきます。その為17日、輝元は上坂し大阪城に入城してしまう事になるのです ここまでの流れは‥ 7月 6日‥広家出雲を出馬 7月12日‥恵瓊佐和山密議 7月13日‥広家播磨で安国寺恵瓊が派遣してきた使者を出迎える 7月14日‥大阪に到着・恵瓊と激論・榊原康政に書を送る 7月15日‥輝元広島を出船 7月16日‥輝元木津の私邸に入る 7月17日‥輝元大阪入城・『内府違の条々』 広家はけねてから親交のあった黒田如水・長政親子をパイプとして家康に接近する事を考えます。黒田家臣の西山吉蔵に釈明の為の密書を託します。この密書はすぐさま家康に回され、これを見た家康は長政に 吉川殿よりの書状をつぶさに拝見した。釈明の赴きは了解した。輝元のこの度の大阪入城に輝元自身が関知していない事がわかって満足した
と手紙を送っています。これを受け長政は広家に内府に申し上げた所釈明に関しては了解して下さっている。輝元公にもこの旨を申し聞かせ内府とさらに親密になる事が大切である。こちらの事は私が整えるが内府が勝利した後では遅いので油断なくするように。なお詳しくは使者に申し添えてあるので聞いていただきたい
という内容の手紙を送ります。広家はひとまず石田方の武将として行動する事にします。8月5日には毛利秀元と共に伊勢に出陣し安濃津城攻撃に参加します。この時の吉川家の活躍は目覚しいものがありました ですがこれは三成を喜ばせ、8月26日付で増田長盛から勧賞され、さらに三成から 「決戦は大垣城辺り。とりあえず南宮山に兵を向けるように」 という要請を受け9月7日南宮山に秀元と共に南宮山に布陣するのです。 三成の密書によると南宮山は「水もなく兵糧の輸送にも手間のかかる高い山」とあります。 この攻撃は黒田長政を心配させるものでしかなく長政は8月25日付で広家に書状を送るのです。 先日申した通り、毛利家が存続できるように、御分別なされよ。確かな(行動の)返答をお待ちしている。なお内府は駿河まで出陣なされた(ウソ)
これは広家に対する通告にも等しい書状であった。広家は意を決して毛利秀元の本陣に赴き家康への内応を説得する事にするのです。 ■秀元「秀頼公を見放しにするのみならず、輝元公の下知なくして勝手に降参するとは何事か!!」 ■広家『太閤の恩を受けた多くの大名が内府の手先となって美濃の地へ来るのです。石田方の敗北は目に見えています。一刻も早く内通し、毛利の家を保ち輝元公の危機を救う事が先決です。幸い黒田長政からも内府への味方をすすめてきています!!』 これを聞いていた毛利家家臣の福原広俊も広家の意見に賛成し共に秀元を諌めます。これで秀元の心も揺れ始めるのです。 ■広家『ともかくこの件はお任せ頂きたいのです』 広家は人質と毛利の戦闘不参加を誓う書状を赤坂の黒田長政の陣所に送ります。これは関ヶ原合戦の前日9月14日の事なのです。これを見た長政は家康に報告。そして井伊直政・本多忠勝・黒田長政・福島正則は連署の起請文を広家に送るのです。 一.輝元に対して、聊か以て、内府御如在あるまじき事
一.御両人別して内府に対せられ、御忠節の上は、以来内府も御如在存ぜられまじく候事 一.御忠節相究め候はば、内府直の墨付、輝元へ取り候て、進むべきの事 付御分国の事は申すに及ばず、只今のごとく相違あるまじく候事 「天満山方面にも幾筋もの狼煙が上がっています」 この時秀元の陣へ長束正家の急使が駆け込んで来ていました。 ■使者「今が機でございます。何卒出陣を!!」 ■秀元『(やはり発つべきか‥しかし吉川が動かん‥)‥‥‥兵卒に兵糧を食べさせている最中である‥ ■使者「‥」 秀元は長束正家・安国寺恵瓊に使者を送ります。 我すでに出陣を決意したが、先鋒の吉川広家が兵を進めず、いかんともし難いこの使者により長束正家・安国寺恵瓊は兵を動かす事ができなくなるのです。 「安国寺様が参られました!!」 ■恵瓊「何故出陣しないのか!!?」 ■広家『我々は大垣城近くで決戦する約束であった。関ヶ原で戦うという話は聞いていない!!この関ヶ原で戦うという事が決定された場に毛利の一族は誰も列席していない!!出陣する必要はない!!』 こうして毛利一族は戦闘に参加する事なく関ヶ原の戦いは終わります‥
毛利の為に大役をはたした吉川広家は安堵感で一杯だったでしょう 徳川の功名な罠が仕組まれている事に気づかずに‥ 吉川広家はこの後毛利宗家存続の為にさらなる試練に向かう事になるのです‥ |



