戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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織田信次 ?〜1600

幼名「縁」生年、母共に不明。
『織田家雑禄』によると関ヶ原の合戦に際し兄、信吉と共に西軍に参戦し討ち死にしたとあります。
『武徳安民記』では大谷吉継の前備えの平塚為広の軍に所属し小早川軍との乱戦の中討ち死にした事が記されています。
信長生存時には幼少で秀吉の時代に成人しているせいか残されている資料が殆どないのが残念です。

信長の子供達の名前をみると基本的に「信」の名を第一字としています。
例外は、四男秀勝(秀吉の夭折した子の名前を襲名)、五男、勝長(美濃遠山氏の養子となる)

十男の長次も名前から考えると例外にあたりますが、当時仕えていた人物の名前の一字を拝領する事を考えると時代的に考えると豊臣秀あたりに仕えていた時期があり名前の一字を拝領したのではないでしょうかね?
(Wikipediaをみてみたらやはりそんな事が記載されていました)

信長の息子の中でも数奇な運命を辿った人物ですね。


※関連記事
「信長の子供達」

小早川秀秋

イメージ 1

有名な肖像画ですよね。このなんともいえない情けない表情‥
他の戦国大名達の肖像画は皆りりしい顔をしているのになんでこんな表情なんでしょうね‥
肖像画って基本的に絵師を目の前にして描かれるものなのでしょうけどこれは余りにも‥
きっと政治的なことや戦の事とは別な事を考えていたに違いない!!

いいこともしているんですけどね‥
例えば、関ヶ原後、秀秋は荒廃していた岡山城を改築し、以前の2倍の外堀を20日間で完成させたり、検地の実施し、寺社のの復興、農地の整備などと城下を急速に近代化させたりなど(ほぼ家臣の提案実行によるものではないかと思いますが‥)

ですがそれ以上にこの人物は情けない所が目立ち、またそのように描かれてきてしまっているので後世の評判もよくないのでしょう。

小早川秀秋が好きな方スミマセン‥

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御宿政友

大阪の陣は漢達の戦国最後の夢や意地をかけた舞台だと思っています。そのうちの一人‥

御宿政友 1566年?〜1615年

御宿勘兵衛の通称で有名ですね‥

父は葛山友綱と言われています(諸説あり。御宿監物・葛山信貞など)
今川氏・武田氏・北条氏と主君を転々と変え、結城秀康に一万石という高禄で召抱えらるが、秀康の子忠直と反目し、浪人して大坂城に入り、夏の陣で討ち死‥どうして有名なんでしょうね‥

勘兵衛は松平忠直の領国越前を賜る約束で大阪に入城しますが、大阪に入るまでさしたる武勲もなく大阪でも常にどこかの隊に合流していたようです。
ですが越前拝領の噂を聞いた松平忠直は政友の首に懸賞金を懸けるほど激怒したそうです(逸話の疑いもありますがこれが勘兵衛の名前を後世に残したのでしょうね‥)。

冬の陣では真田幸村隊に属して真田丸に布陣してました。
ここで因縁深い松平勢と戦い松平勢に大きな損害を与えます。
きっと溜飲の下る思いだったのでしょう!!

勘兵衛は「冬の陣」にて大野治房の指揮下にて岡山口に陣取り奮戦しますがここで夢と共に討ち死にをとげています‥

佐々成政

イメージ 1

                        【『花の慶次』より 間違いなく悪役顔‥】
不遇なイメージが強い人物です‥『さらさら越え』『国衆一揆による死罪』‥

佐々成政 ?〜1588

ですが成政は死後時の天皇後陽成天皇から哀悼の意を示されているほどの人物なのです。

佐々成政は信長暗殺を企てたこともありますが不問に問われ以後信長に忠誠を誓います。いくら能力がすぐれていても暗殺を企てた人物を不問に問うのもどうかとおもいますが‥
成政には2人の兄がいましたが共に戦死し佐々家の総領になり、以後馬廻衆の一員として活躍し、母衣衆にも選ばれる程の栄誉に預かります。

永禄元年 信長が上洛した際には堺にて鉄砲を買い求めます。
永禄五年 近江国友村にて鉄砲200挺を買い付けます。
以来鉄砲隊の指揮者となります(信長の野望での鉄砲指揮は確かに高かった)
永禄六年 犬山城攻めでは130人の首を挙げる活躍
永禄十年 稲葉山城攻めでは鉄砲隊300人を率いて活躍
以後主要な戦いにおいても鉄砲隊を指揮する事が多くなります。

越前の一向一揆を討伐した信長は柴田勝家を封じその与力として佐々成政、前田利家、不破光治を配属します。この時信長はこの3人に
『越前の国については基本的に柴田勝家に任せる。おぬしら3人は勝家の目付けとして配属されるものであるが逆におぬし達のことは勝家が監視する。互いに切磋琢磨して努力し、手加減などしてはならない』
と指示したそうで、これは信長の直臣としては同格である事を表しているそうです。目付けで配属されるのと、国を任される事が同格かどうかは多少疑問ですが‥
その後信長は上杉謙信の勢力を越中から排除しようとしますが進展せずこのため成政を与力から分け越中に派遣します。

ここで成政が行ったのは軍事ではなく治水だったのです。この為領民からの支持は厚く優れた統治者として慕われます。現在でも富山市には当時築かれた『佐々堤(霞堤)』の跡が残っています。
             
翌年信長は正式に成政を越中国主に任命します。苦戦するものの国内の上杉勢力は一掃され支配体制の強化に成功します。その後上杉攻略にかかり越中平定もなるかという時に本能寺の変が起こるのです。
一旦は退却するものの成政は独力で奪い返された魚津城を再度奪回し越中の平定をい成し遂げます。

この間畿内では柴田勝家と羽柴秀吉が織田政権の継承を巡って抗争を繰り広げていました。
越中は石高40万石で動員兵力は一万人。成政は勝家に味方していましたが上杉家との戦で夢中だった為か賤ヶ岳の戦いに参加する事なく勝家は敗れ去ります。もう少し周りを見る目があったらよかったのに‥

これで成政は秀吉に屈服するのですが、それを秀吉もあっさり認めています。まだ情勢が不安定な秀吉は無駄な戦は避けたかった為と思われます。
織田政権の簒奪を進める秀吉に対し信長の遺児信雄が家康の支援を受け挙兵。その使者が成政の富山城を訪れますが周りの情勢を見た成政は動く事がなかなかできませんでした。ですがこのまま秀吉政権下に留まっても将来はないと悲観したのか決起の準備に入り約八千の兵で前田領に進攻して末森城を包囲します。ですが「末森城の後巻き」で知られる前田利家の(唯一の)武勇により退却します。退却に際しても前田の追撃を寄せ付けず、逆に前田方の鳥越城を奪取していくなどとその力を見せ付けるのです。

その後の信雄の単独講和から有名な『さらさら越え』は皆様よく知る所です。

秀吉はその後紀伊、四国と平定しもはや抵抗不可能と悟った成政は剃髪し降伏するのです。
ですが秀吉は助命しなおかつ越中東部の新川郡約10万石の領有を許し摂津でも1万石を与え成政を御伽衆に加えるのです。これは成政の武略と経験を利用しようとしたものと思われます。その後羽柴姓を与え陸奥守侍従に任官します。

成政は九州征伐で活躍しこの功績により肥後50万石の大名に返り咲くのです。
早速成政は検地を実施します。ですがこれは在地領主の国衆を刺激し次々と決起されてしまうのです。数ヶ月で諸大名の助けもあり鎮圧しますがこの一件について釈明の為大阪に向かう最中に尼崎にて自害を命じられてしまうのです。これに対しては樋口晴彦氏は
「3年検地あるまじき事」という指示があったにもかかわらず検地を強行したというのは後世の創作である可能性が高い。そもそも当時は豊臣政権自体が全国的に検地を推し進めていたのだから、検地の実施を命令違反とするのは不可解である。肥後以外でも国衆一揆は発生していて成政ただ一人改易、切腹を命じられたのは公平と言い難い。この過酷な処分の背景には豊臣政権内部の権力抗争が関係しているように思われる。(中略)領地配分で成政が50万石を得た事に対する反発が強かったのであろう。当時の風説では浅野長政が成政の事を讒言し、一揆鎮定後検断した加藤清正と小西行長の報告内容が成政にとって極めて不利であった。
と。確かにその説も最もであるという感じです。秀吉による信長遺臣排除の典型的な例であったようにも思えますし‥
いづれにせよ成という武将は政治的駆け引きが苦手でなおかつこの時期にいたっては時代遅れになりつつあったのかもしれないですね。

このように無念の死を迎えた成政ですが次女が関白鷹司信房に嫁ぎ、その娘が徳川三代将軍家光の正室になり孫娘は五代将軍綱吉の正室に迎えられその血を天下人の中に残すのです。
【参考文献】『信長の家臣団−樋口晴彦 PHP文庫』

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「吉川広家の戦い」

多少誇張している部分もありますが吉川広家の関ヶ原の戦いです。


午前11:00
三成は狼煙の用意を命じた。
この狼煙で松尾山の小早川秀秋と、南宮山の毛利秀元・吉川広家らが総攻撃に移る手筈である。

−ついに上がったか


「狼煙を確認しました。出陣の采配を!!」
『動くことまかりならぬ。秀元殿の兵にも道を開けるな!!』
毛利氏一族の大黒柱的な存在の吉川広家はこれを制した。

−だがもう少しだ‥



数ヶ月前‥

広家は家康からの会津遠征の出兵要請に応えるため出雲を7月6日に出馬。13日播磨において安国寺恵瓊が派遣してきた使者を出迎え14日に大阪に到着。ところが安国寺恵瓊はすでに12日近江佐和山で石田三成・増田盛長・大谷吉継らと密議し輝元をかつぎ出す事を策し、三奉行が連署し、輝元に大阪入城を要請する書状を発していた。その2日後の14日夜広家は恵瓊と激論を交わした‥

■恵瓊「内府(家康)が会津へ向かったことは不法である。景勝殿に落ち度はない。皆で相談し内府を止めたが関東へ出馬した!!このような政治では諸大名は安心出来ない。秀頼公の為にも先が思いやられる。この為石田治部、大谷刑部らが、会津が堅固な内に上方にて戦を起こすべきかどうかを思案していた所、増田・長束も同意した。そこで輝元公にも、片時も早く御上りするよう申した次第である」
■広家『日本を二分するほどの戦争を我等の考えで判断は出来ない。貴僧も身分をわきまえよ。太閤がまだ存命の時起請文を交わして公儀の為の協力を仰せられた。だが、戦乱の兆しがあらわれ、そのうえ昨年内府と四大老・五奉行が不和ななった時も輝元公と内府は御和睦して兄弟の契りを結ばれた。内府は太閤と戦ってもひけを取らず、今は関東八州の大領主、しかも内府に心を寄せる大名は多い。そもそも元就公が天下を望んではならぬと遺言されていたと父元春から聞かされている。万一輝元公が天下を手にされても権力を振るうのは石田らの奉行である。そうなっては内府へ帰服するよりも聞こえが悪い。貴僧の思案が大切である』
■恵瓊「‥いや、ただちに大阪城西ノ丸より内府の留守居を追い出し、毛利の人員を入れるべきである!!」
■広家『輝元公の下知を聞かずにそのような事はできぬ』
■恵瓊「輝元公も内々でこの事を承知しており、大阪木津の屋敷に福原・堅田を残されたのもこの為である」
■広家『そのような事は聞いていない!!』
■恵瓊「貴殿がそのような考えであってはこの戦は成り立たぬ。そうなれば私が腹を切らねばならぬ‥」
■広家『たとえ貴僧が腹を切ろうが、輝元公の身の上には替え難い!!』
2人の主張はもの別れに終わります。

−あの男は好かん‥


かねてよりとは恵瓊は折り合いが悪く、恵瓊は石田三成や増田盛長などと懇意にしていて、これに対し広家は黒田長政や福島正則などと親しい間柄でした。豊臣家における武将派と奉行派の対立の縮図が毛利家にもあったのです。

−輝元公の出馬を止めねばならぬ。しかもこれが内府の耳に入ってしまったら最悪だ


そこで広家は、広島に椙杜元縁を派遣し、同日14日付で榊原康政に自筆の書をしたためた。
石田・大谷らの企てを聞いて驚いた次第。ことに安国寺の言は全くの偽りで、輝元の知らぬ事であります。早速広島に使者をつかわします。貴殿には追伸申し上げるので、なにとぞこのむねを含み置きくださいますよう
間もなく椙杜元縁が海上で輝元と入れ違いになったと戻ってきます。
その為17日、輝元は上坂し大阪城に入城してしまう事になるのです

ここまでの流れは‥
7月 6日‥広家出雲を出馬
7月12日‥恵瓊佐和山密議
7月13日‥広家播磨で安国寺恵瓊が派遣してきた使者を出迎える
7月14日‥大阪に到着・恵瓊と激論・榊原康政に書を送る
7月15日‥輝元広島を出船
7月16日‥輝元木津の私邸に入る
7月17日‥輝元大阪入城・『内府違の条々』

−これは毛利家の危機だ。今する事はまず毛利の安泰を図る事‥


広家はけねてから親交のあった黒田如水・長政親子をパイプとして家康に接近する事を考えます。黒田家臣の西山吉蔵に釈明の為の密書を託します。この密書はすぐさま家康に回され、これを見た家康は長政に
吉川殿よりの書状をつぶさに拝見した。釈明の赴きは了解した。輝元のこの度の大阪入城に輝元自身が関知していない事がわかって満足した
と手紙を送っています。これを受け長政は広家に
内府に申し上げた所釈明に関しては了解して下さっている。輝元公にもこの旨を申し聞かせ内府とさらに親密になる事が大切である。こちらの事は私が整えるが内府が勝利した後では遅いので油断なくするように。なお詳しくは使者に申し添えてあるので聞いていただきたい
という内容の手紙を送ります。

−これで取りあえずは一安心だ。だが問題はまだある


−決戦の前にしかるべき手を打たなければ‥


−しかし輝元公の立場もある自分だけがすぐさま行動に移すのは危険だ‥


広家はひとまず石田方の武将として行動する事にします。8月5日には毛利秀元と共に伊勢に出陣し安濃津城攻撃に参加します。この時の吉川家の活躍は目覚しいものがありました

−手ぬるい攻撃では疑いがかかる。一気に攻めてしまうべきだ。まだ決戦までには期日もあろう‥


ですがこれは三成を喜ばせ、8月26日付で増田長盛から勧賞され、さらに三成から
「決戦は大垣城辺り。とりあえず南宮山に兵を向けるように」
という要請を受け9月7日南宮山に秀元と共に南宮山に布陣するのです。

−しかし南宮山とは‥


三成の密書によると南宮山は「水もなく兵糧の輸送にも手間のかかる高い山」とあります。

この攻撃は黒田長政を心配させるものでしかなく長政は8月25日付で広家に書状を送るのです。
先日申した通り、毛利家が存続できるように、御分別なされよ。確かな(行動の)返答をお待ちしている。なお内府は駿河まで出陣なされた(ウソ)
これは広家に対する通告にも等しい書状であった。

−何!!もう駿河まで内府は出てきているのか!!悠長な事はしていられない!


広家は意を決して毛利秀元の本陣に赴き家康への内応を説得する事にするのです。
■秀元「秀頼公を見放しにするのみならず、輝元公の下知なくして勝手に降参するとは何事か!!」
■広家『太閤の恩を受けた多くの大名が内府の手先となって美濃の地へ来るのです。石田方の敗北は目に見えています。一刻も早く内通し、毛利の家を保ち輝元公の危機を救う事が先決です。幸い黒田長政からも内府への味方をすすめてきています!!』
これを聞いていた毛利家家臣の福原広俊も広家の意見に賛成し共に秀元を諌めます。これで秀元の心も揺れ始めるのです。
■広家『ともかくこの件はお任せ頂きたいのです』

−すぐに行動に移さねば


広家は人質と毛利の戦闘不参加を誓う書状を赤坂の黒田長政の陣所に送ります。これは関ヶ原合戦の前日9月14日の事なのです。これを見た長政は家康に報告。そして井伊直政・本多忠勝・黒田長政・福島正則は連署の起請文を広家に送るのです。
一.輝元に対して、聊か以て、内府御如在あるまじき事
一.御両人別して内府に対せられ、御忠節の上は、以来内府も御如在存ぜられまじく候事
一.御忠節相究め候はば、内府直の墨付、輝元へ取り候て、進むべきの事
付御分国の事は申すに及ばず、只今のごとく相違あるまじく候事

−これで輝元公の無罪と毛利の領国保障が約束された!!直政殿と忠勝殿の血判まであるのだ。あとは参戦せずに耐え抜けばよい!!




「天満山方面にも幾筋もの狼煙が上がっています」

−宇喜多陣営に小西陣営だな‥しかし毛利は動かんぞ


この時秀元の陣へ長束正家の急使が駆け込んで来ていました。
■使者「今が機でございます。何卒出陣を!!」
■秀元『(やはり発つべきか‥しかし吉川が動かん‥)‥‥‥兵卒に兵糧を食べさせている最中である‥
■使者「‥」
秀元は長束正家・安国寺恵瓊に使者を送ります。
我すでに出陣を決意したが、先鋒の吉川広家が兵を進めず、いかんともし難い
この使者により長束正家・安国寺恵瓊は兵を動かす事ができなくなるのです。

−我が軍が動かなければ安国寺・長束も動けまい


「安国寺様が参られました!!」

−やはり来たか


■恵瓊「何故出陣しないのか!!?」
■広家『我々は大垣城近くで決戦する約束であった。関ヶ原で戦うという話は聞いていない!!この関ヶ原で戦うという事が決定された場に毛利の一族は誰も列席していない!!出陣する必要はない!!』

こうして毛利一族は戦闘に参加する事なく関ヶ原の戦いは終わります‥
毛利の為に大役をはたした吉川広家は安堵感で一杯だったでしょう
徳川の功名な罠が仕組まれている事に気づかずに‥
吉川広家はこの後毛利宗家存続の為にさらなる試練に向かう事になるのです‥

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