戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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陶晴賢

このブログでは余り触れてこなかった時代の人物についてです。

陶晴賢 1521〜1555 中務大輔・尾張守

余りいいイメージがないかもしれません‥
大内義隆に反旗を翻し、義隆を自害させて実権を握ったなんて未だに見方も残ってますしね(当時の名は隆房)
ですがそれ程悪人ではないような‥
なぜなら、そこに至るのも1543年の尼子攻めに大敗した大内義隆が文弱に耽りそのツケを農民への重税にまわした事に要因がある気がするからです。
以後隆房(晴賢)自身何度も義隆を諌めますが効果はなく、以後、義隆は文治派の相良武任を重用し、武断派であり筆頭家老の隆房(晴賢)を遠ざけてしまうのです。
さらに1550年には隆房(晴賢)が、
『謀反を企図している』
という噂が城下で満たされることとなってしまいます。
隆房(晴賢)は必死の弁解により許されますが、この年の11月以降、隆房(晴賢)は山口を離れ、周防都濃郡富田へ帰り政治に参加することを止めてしまいます。
次第に叛意を強めると共に、隆房(晴賢)は主家と農民の為に義隆の追放を決意するに至るのです。
隆房(晴賢)は義隆の姉の子晴英を大友家から迎えて後継当主に推戴します。晴賢が本当に悪人だったらこの時主家乗っ取りくらいはしていたような気がしてしまいます(いきなり全権奪取もないかとは思うのですけどね‥)。晴英の名にちなみこの時隆房は晴賢と改名します。

晴賢は大内義隆の筆頭家老として政務の中枢に携わり、周防守護代をも兼ね、気質は剛勇で『西国無双の侍大将』とも評され、家臣にも手厚く接するなど、人物も優れていたそうです。大内義隆が暗愚だっただけのような気がするのですが‥

少しそんな事を考えたので記事にしてみました‥
和歌、茶道、領国経営、通過の奨励、城郭建築、武功と多岐な器量を備えた人物。

蒲生飛騨守氏郷 1556〜1595

以前一度記事にしてますが好きな戦国大名なのでもう少し細かく‥
【死因について】
氏郷の急死に関しては、秀吉や豊臣政権の五奉行となる石田三成らによる毒殺説もありますが、三成自身が蒲生旧臣を多く召抱えていることを理由とする否定的な見方もあります。
氏郷を診断した医師、曲直瀬玄朔が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役の主兵の途中、氏郷は既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記してあります。その他の玄朔の診断内容から氏郷は今でいう直腸癌、又は膵臓癌だったと推測されています。 蒲生家の家督は嫡子の蒲生秀行が継ぎますが、家内不穏の動きから宇都宮に移されます。

【簡単な略歴】
正式の名は藤原氏郷。父は近江国日野城主蒲生賢秀。
妻は織田信長の娘の冬姫。
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったそうです。初め、
近江国日野城主、次に
伊勢国松阪城主、最後に
陸奥国黒川城主となります。

【信長時代】
1568年、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従することになります。このとき、氏郷は人質として岐阜の信長のもとに送られ、信長は

「眼精常ならず(目の輝きが普通ではない)」

と言って、氏郷の才を見抜き、娘の冬姫を氏郷と結婚させ、元服して忠三郎賦秀と名乗り、織田氏の一門として手厚く迎えられます。人質でありながらも主君の娘を嫁に受ける位ですからよほどのものだったのだと思います。また信長は

「蒲生が子(氏郷)はただものならず。彼が勇将ならずんば、外に勇将なるものなし」

と稲葉一鉄に話していました。事実その通り、氏郷は
1569年の伊勢大河内城攻めや1573年の朝倉攻めと小谷城攻め
1574年の伊勢長島攻め
1575年の長篠の戦いなどに従軍して武功を挙げていきます。
1582年本能寺の変後、安土城にいた信長の妻子を保護し父とともに居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示すのです。

【秀吉時代】
その後は羽柴秀吉に仕えます。秀吉は

「氏郷はわしに似ている。わしのやろうとすることをやってしまう。恐るべき男だ」

と評しています。氏郷は伊勢松坂に12万石を与えられその後
1584年の小牧・長久手の戦い
1585年の紀伊攻め(この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めていますが、これは羽柴秀吉の名乗りの一字を下に置く『賦秀』という名が不遜であろうということからです)
1587年九州征伐
1590年小田原征伐に従軍
その功により伊勢より陸奥会津に92万石の大領を与えられます。わずか8年の間に6万石から92万石に昇進するという例は他に類をみないことで、氏郷が当時どれほどの大器とみなされていたかがよくわかります。この後伊達政宗とともに奥州仕置を行います。
1593年大崎・葛西一揆
1594年九戸政実の乱を制圧
朝鮮出兵の名護屋で在陣していた時に病に倒れます。
1595年2月7日京都の伏見城において病を発して急死、享年40。余りにも惜しい大器の死です。

【人物像】
氏郷は銀の鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られます。家臣を大切にし、また茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです(諸説あり)。利休の曾孫江岑宗左の残した、『江岑夏書』では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、
『自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものを』
と、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあります。諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評されています。また千利休は氏郷を

『文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名』

と評しています。利休切腹の命が下った際、利休の養嗣子少庵を会津に匿うなどという事もしています。
また、高山右近とも親交があったためにキリシタンとなり、レオ(レオン)という洗礼名を持っていました。
松坂時代、氏郷は日野から多くの商人や職人を引き連れて松坂の街づくりを推進します。会津でも日野や松坂から多くの商人や職人を連れ発展に力を尽くします。特に近江国から移入した漆器と酒造は今でも二大地場産業として全国に知られています。

【逸話】
『常山紀談』には、92万石を与えられたとき、氏郷は

『たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるものを』

と激しく嘆いたのは有名な話ですね(個人的には常山紀談による作り話だと思っていますが‥)。これは秀吉が氏郷をそばにおいて置くと危険だからという説が一般的だったりしてますけど、実際は関東の徳川家康、奥州の伊達政宗を牽制する狙いでこの地に氏郷を置いたという方が事実な気がします。氏郷はこの大大名を牽制できる位の器であったのだという事だと思います。前田利家に、

『もし徳川に不穏な動きがある場合はこの氏郷が咽もとに噛み付いてみせましょう』

と言っているくらいですから。
また神父オルガンティーノが書簡に、

秀吉は氏郷が死ぬと秀頼に天下を取らせることは叶わぬと号泣した

としたためています。

【逸話(小話)】
『主将として大勢の人を戦場で使うには、ただ掛かれと口で指揮しても掛かるものではない。掛かれと思うところには主将自らまずその場所に行って、ここにこいと言えば主将を見捨てる者はいない。自身は後ろにいて、ただ人にのみ掛からせようとしても、できるはずはないものである』と言っていました。氏郷は初陣の時から銀の鯰尾の兜をかぶり常に先陣を進んでいました。新たに使える者があると氏郷は
『わが軍に銀の鯰尾の兜をかぶり先陣を進む者がいる。この者に劣らず働くようにいたせ』と言い、新参の者がそれは誰であろうと思いながら出陣するとそれは主君氏郷で蒲生家の者は皆勇敢であったそうです
佐久間安政という侍が氏郷に初めて拝謁した時、畳のへりにつまずいて倒れます。それを数人の小姓が互いに目配せをして含み笑いをしていました。氏郷はそれらの小姓を後に集め厳しく叱ります
『お前達はまだ物の分別を知らぬ故に、自分自身の奉公をもって彼を推し量ろうとする。彼(佐久間)は畳の上の奉公人ではない。使う所が違うのだ。お前達は畳の上の奉公を第一とするが、このことをもって彼を推し量れば、大きな間違いを犯す事になる』小姓は自分達の非をおおいに感じたそうです。

氏郷の夭逝がなければ関ヶ原だけでなくその後の天下の趨勢もどうなっていたかと思わせるのです。せめてあと10年‥


【辞世の句】

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風

山本勘助

軍師といえば竹中重治・黒田孝高以上の抜群の知名度をほこる人物‥

次の大河ドラマの主役!山本勘助 1493?〜1561

1543年に板垣信方の推挙によって信玄に仕えます。
それからは信玄の知恵袋として活躍しますが、これほど有名なのに江戸時代から実在説と架空説が飛び交う謎の多い軍師でもありました。
現在は昭和44年に北海道釧路市松浦町で発見された『市川文書』の断片の中に「山本助」の名前が見られ、この断片は重要文化財の『市川文書』(山形県酒田市・本間美術館蔵)の一部であると認定されたことから実在説が証明されたとも言われていますし実在説が有力です。
『市川文書』とは‥北信濃の豪族で上杉氏に仕えた市川氏の子孫に伝わる文書で武田信玄の書状と言われています。市川文書には
「猶、山本菅助口上有るべく候。恐々謹言 六月廿三日  晴信 花押  市川藤若殿」
(重要なことは、使者山本菅助が口頭をもって伝える)
と見えています。
ですがまだまだこのことに関しては研究と新たな資料の発見を待たなければならないんじゃないかなぁとも考えてしまいます。後日、山本勘助のモデルにはなっているんだと思いますが、これ以降はこの山本助は出てきません。『市川文書』だけでは決め手に欠けるような気がしてしまうのです。
しかも『甲陽軍鑑』に描かれるような軍師ではなく伝令将校のような役割を果たす人物であったと記載されています。実在していたとしても実はそれ程高い地位にいた人物ではなかったのかもしれません。まぁ『甲陽軍鑑』自体信憑性については??という感じですからねぇ‥

松浦鎮信の『武功雑記』には勘助が山県昌景の部下であったともしるされています。もうめちゃくちゃですね‥

個人的には従来のイメージの勘助が実在していたらいいなぁと思ってます。

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内藤如庵

キリシタン武将としてのイメージが強いですね。

内藤如庵 ?〜1626

1614年徳川幕府のキリスト教の禁教令より、内藤如庵は高山右近らと共にフィリピンのマニラに国外追放されます。
日本を追われマニラに流された如庵は、マニラに着いた時、予想もしなかった大歓迎を以て迎えられたそうです。そこでは住民に敬慕されて、初めて彼の地に安住の地を得たと記しされています。
1626年73才の一生を、妻、妹、子供と多くの現地の宣教師や修道院の人達に見守られながら、眠るように安らかに昇天したと語られています。

などと、なんとなくおだやかな感じですが如庵の父はあの戦国の梟雄松永久秀の弟松永長頼です。
松永久秀はその悪行だけがピックアップされがちですが文化人としての一面を濃く持っていたことは皆さんご存知ですよね。それどころか松永の血は梟雄ではなく『文化人の血』の方が濃いです。
その血を引いている如庵も聡明な少年だったそうです。

1592年第一次朝鮮出兵の時小西行長の部下(客将という説もあり)として、共に朝鮮出兵に参加します。
この戦の本質を見ていた行長は如庵に明との和平の為の外交交渉をゆだねます。
1年以上の時間をかけ非常に困難であった和平交渉をまとめ「文禄の役」の終結に成功します。

1600年の関ヶ原の戦いでは小西行長の本城宇土城を城代の小西行景と共にわずかな城兵で加藤清正の猛攻から一ヶ月以上も守りぬきます。この時の如庵は軍師的な役割を果たし兵を指揮しています。
そんな中行長刑死の報が届き行景は籠城を断念し開城にいたるのです。
宇土城攻防戦における如庵の活躍に目をつけた清正は如庵を5000石で召抱えますが清正といえば最強の日蓮宗の信仰者。合うはずがありません。やはり如庵に改宗を強要します。
受け入れられるはずのない如庵は加藤家を去り同じキリシタン武将である高山右近の斡旋で加賀金沢藩主前田利長の庇護をうけることになるのです。
ですが‥ここに突然キリスト教禁教令が発布されるのです。
幕府は棄教に応じない信者たちに国外追放を掲げるのです。その結果如庵は信仰のため国外追放の道を選びます。
冒頭のようにマニラに行ってからが人生のなかで1番落ち着けた時期なのかもしれないですね

小山田信茂

イメージ 1

武田贔屓の人は嫌いな武将だと思います‥武田家滅亡の折りには、穴山梅雪同様に武田を裏切った悪人のイメージが強いですから‥

小山田左兵衛尉信茂 1539年〜1582年

「小山田家」は平安時代に一時代を築いた平氏の末裔であり、武田信玄 の父信虎の代までは 武田家 と覇権を巡って争っていました。
信虎の時代に和睦して盟友関係となりますが、あくまで和睦であり盟友であって、正確には小山田信茂は完全な武田家の家臣という訳ではありません

1552年 父の戦死にともない弱冠12歳で家督を継ぎます。
若年ながら1554年 信玄の長女が相模の北条氏政に嫁すにあたっての行列を取り仕切ります。
武勇にも優れていました。
1557年には第三次川中島の合戦で初陣を飾り、
1569年の小田原攻めでは、八王子で北条氏照軍を破り
1572年の三方原でも先鋒大将をつとめています。
こういった武功により軍装を黒で統一されていた小山田勢は武田軍中最強とも評されています。
また、馬場信房・山県昌景などの宿将たちとともに「弓矢の御談合七人衆」の一人に選ばれたり、
「文のいることは弥三郎(信茂の幼名)に聞けばよい」
と文武両面に渡って、信玄の信頼も厚かったのです。
これもその武田家と小山田家の関係及び信茂の抜きん出た能力に拠るものです。

信玄没後の1575年5月の長篠の合戦でも、信茂は自部隊から武田軍中一番の犠牲者を出しながら一時は織田方の防護柵を破るなどよく戦いました。

1582年3月、武田滅亡に際して、信茂は武田勝頼に岩殿城へ退くことを勧めます。
3月9日
信茂は勝頼の受け入れ態勢を整えるべく先んじて郡内に帰ります。実は信茂からの申し出よりも先に真田昌幸からの岩櫃城への引き入れ申し入れがあり、勝頼も乗り気になっていたのですが、勝頼はあえて反故にしています。これも外様の真田家と普請中の普請の小山田家との差があったからこそであると思われます。
しかし、勝頼の首を持参すれば織田も許してくれるとでも考えたのか信茂は勝頼の入城を拒むのです。
3月11日
武田氏は天目山にて一族郎党自刃、滅亡します。
3月14日
信茂は甲府・善光寺に滞陣していた織田信忠と謁見しますが、主家を裏切った不忠者として捕らえられます。信忠は堀尾吉晴に信茂の処刑を命じ、堀尾吉晴の臣則武三太夫の介錯のもと信茂は切腹し、小山田家は断絶するのです。

確かに小山田氏は武田氏と代々姻戚関係を結び、武田軍の主力として存在していたことを考えればその行為は許し難いものとも考えられますが、先にも触れた通り

小山田氏と武田氏の関係は主従関係というよりも同盟関係に近いもの

なのです。

信茂が織田家に寝返った理由に

小山田家は武田家に従属してはいたが、あくまでも独自の勢力である

武田家と命運を共にするのを良しとしなかった

というような事が考えられます。正直、戦国を生き抜く為には仕方のない行為だと思います‥

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