和歌、茶道、領国経営、通過の奨励、城郭建築、武功と多岐な器量を備えた人物。
蒲生飛騨守氏郷 1556〜1595
以前一度記事にしてますが好きな戦国大名なのでもう少し細かく‥
【死因について】
氏郷の急死に関しては、秀吉や豊臣政権の五奉行となる石田三成らによる毒殺説もありますが、三成自身が蒲生旧臣を多く召抱えていることを理由とする否定的な見方もあります。
氏郷を診断した医師、曲直瀬玄朔が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役の主兵の途中、氏郷は既に名護屋城で発病し黄疸、目下にも浮腫などの症状が出たと記してあります。その他の玄朔の診断内容から氏郷は今でいう直腸癌、又は膵臓癌だったと推測されています。 蒲生家の家督は嫡子の蒲生秀行が継ぎますが、家内不穏の動きから宇都宮に移されます。
【簡単な略歴】
正式の名は藤原氏郷。父は近江国日野城主蒲生賢秀。
妻は織田信長の娘の冬姫。
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったそうです。初め、
近江国日野城主、次に
伊勢国松阪城主、最後に
陸奥国黒川城主となります。
【信長時代】
1568年、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従することになります。このとき、氏郷は人質として岐阜の信長のもとに送られ、信長は
「眼精常ならず(目の輝きが普通ではない)」
と言って、氏郷の才を見抜き、娘の冬姫を氏郷と結婚させ、元服して忠三郎賦秀と名乗り、織田氏の一門として手厚く迎えられます。人質でありながらも主君の娘を嫁に受ける位ですからよほどのものだったのだと思います。また信長は
「蒲生が子(氏郷)はただものならず。彼が勇将ならずんば、外に勇将なるものなし」
と稲葉一鉄に話していました。事実その通り、氏郷は
1569年の伊勢大河内城攻めや1573年の朝倉攻めと小谷城攻め
1574年の伊勢長島攻め
1575年の長篠の戦いなどに従軍して武功を挙げていきます。
1582年本能寺の変後、安土城にいた信長の妻子を保護し父とともに居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示すのです。
【秀吉時代】
その後は羽柴秀吉に仕えます。秀吉は
「氏郷はわしに似ている。わしのやろうとすることをやってしまう。恐るべき男だ」
と評しています。氏郷は伊勢松坂に12万石を与えられその後
1584年の小牧・長久手の戦い
1585年の紀伊攻め(この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めていますが、これは羽柴秀吉の名乗りの一字を下に置く『賦秀』という名が不遜であろうということからです)
1587年九州征伐
1590年小田原征伐に従軍
その功により伊勢より陸奥会津に92万石の大領を与えられます。 わずか8年の間に6万石から92万石に昇進するという例は他に類をみないことで、氏郷が当時どれほどの大器とみなされていたかがよくわかります。この後伊達政宗とともに奥州仕置を行います。
1593年大崎・葛西一揆
1594年九戸政実の乱を制圧
朝鮮出兵の名護屋で在陣していた時に病に倒れます。
1595年2月7日京都の伏見城において病を発して急死、享年40。余りにも惜しい大器の死です。
【人物像】
氏郷は銀の鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られます。家臣を大切にし、また茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです(諸説あり)。利休の曾孫江岑宗左の残した、『江岑夏書』では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、
『自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものを』
と、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあります。諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評されています。また千利休は氏郷を
『文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名』
と評しています。利休切腹の命が下った際、利休の養嗣子少庵を会津に匿うなどという事もしています。
また、高山右近とも親交があったためにキリシタンとなり、レオ(レオン)という洗礼名を持っていました。
松坂時代、氏郷は日野から多くの商人や職人を引き連れて松坂の街づくりを推進します。会津でも日野や松坂から多くの商人や職人を連れ発展に力を尽くします。特に近江国から移入した漆器と酒造は今でも二大地場産業として全国に知られています。
【逸話】
『常山紀談』には、92万石を与えられたとき、氏郷は
『たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるものを』
と激しく嘆いたのは有名な話ですね(個人的には常山紀談による作り話だと思っていますが‥)。これは秀吉が氏郷をそばにおいて置くと危険だからという説が一般的だったりしてますけど、実際は関東の徳川家康、奥州の伊達政宗を牽制する狙いでこの地に氏郷を置いたという方が事実な気がします。氏郷はこの大大名を牽制できる位の器であったのだという事だと思います。前田利家に、
『もし徳川に不穏な動きがある場合はこの氏郷が咽もとに噛み付いてみせましょう』
と言っているくらいですから。
また神父オルガンティーノが書簡に、
秀吉は氏郷が死ぬと秀頼に天下を取らせることは叶わぬと号泣した
としたためています。
【逸話(小話)】
『主将として大勢の人を戦場で使うには、ただ掛かれと口で指揮しても掛かるものではない。掛かれと思うところには主将自らまずその場所に行って、ここにこいと言えば主将を見捨てる者はいない。自身は後ろにいて、ただ人にのみ掛からせようとしても、できるはずはないものである』と言っていました。氏郷は初陣の時から銀の鯰尾の兜をかぶり常に先陣を進んでいました。新たに使える者があると氏郷は
『わが軍に銀の鯰尾の兜をかぶり先陣を進む者がいる。この者に劣らず働くようにいたせ』と言い、新参の者がそれは誰であろうと思いながら出陣するとそれは主君氏郷で蒲生家の者は皆勇敢であったそうです
佐久間安政という侍が氏郷に初めて拝謁した時、畳のへりにつまずいて倒れます。それを数人の小姓が互いに目配せをして含み笑いをしていました。氏郷はそれらの小姓を後に集め厳しく叱ります
『お前達はまだ物の分別を知らぬ故に、自分自身の奉公をもって彼を推し量ろうとする。彼(佐久間)は畳の上の奉公人ではない。使う所が違うのだ。お前達は畳の上の奉公を第一とするが、このことをもって彼を推し量れば、大きな間違いを犯す事になる』小姓は自分達の非をおおいに感じたそうです。
氏郷の夭逝がなければ関ヶ原だけでなくその後の天下の趨勢もどうなっていたかと思わせるのです。せめてあと10年‥
【辞世の句】
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
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